天風教義の誦句集に、「私は力だ、力の結晶だ」というのがあります。この「力」とは何かということは人に教えることはほとんど不可能だと分かった。それは普通の人に、量子力学や相対性理論を教えることは出来ないということと同じですね。量子力学のさらに先の素粒子論と、この力の意味は繋がってくるのだから。
人はそれぞれにその人のレベルで「力」という意味を捉えている。むしろ何も考えずに口にしている。
エネルギーという意味を知らずにエネルギーという言葉を使っているのと同じですね。エネルギーという言葉の意味も実は難しい。実は私はそれがまだ分からないでいる。
ある人は、エネルギーは、E=mc2乗だと言う。E=1/2mv2乗だと言う人もいるかも知れない。熱力学の方程式を言う人もいるかも知れない。しかしそれはエネルギーEが何々と等価だという式であってエネルギーそのものの定義ではない。
「私は力だ、力の結晶だ」というのも、インドの山の中で誰かが何十年修行して瞑想して掴んだ感覚というか、真理を岩に刻んでいた言葉なのだけれど、悟りというのは凄いもんだと思うね。その修行者の意識が素粒子のレベルまで行っていたということだもんな。
ということを天風会に入って7年掛かって分かったけれど、残念ながら、誰にもそれを理解させることは出来ないでいる。
素粒子論の概念を理解できない人は、この「力」の意味を本当には理解できない。
人はいくら知識を頭に入れても、99.9%の人は生まれ育ちを越えることは出来ない。0.1%の人だけがそれを越えることが出来る。それが覚者になるわけですね。
何事も学ぶことは大事だけれど、学んでいる人と学んでいない人の間に人間的な差は無いですね。学んだ知識が逆に邪魔しているケースも多々ある。自らを客観的に見る力がないと、「私は何も知らない」という何も学んでいない人の方が遙かに立派になる。知識は人を成長させない。気付きを自ら身に付けることで成長するのだけれど、ほとんどの人は気付きと知識との区別が付かないでいる。
あ~ぁ、愚痴になってしまうな~。天風先生や山田先生などはこの無力感を越えていたんだよね。本当に立派だよね。私はそこまでは遙かに到達していない。
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