お釈迦様が生まれ変わったら、どういう人生を送りたいと思うだろうか?
私がいつも言うことですが、前に書いたことがあるとは思いますが、それは晴耕雨読の農民ですね。そして家族和気藹々(わきあいあい)の平凡な生活だと思いますね。
悟りたいとか、何かに成功したいとか、そういう考えや欲望から解放された平凡こそ究極の悟りと思うのではないでしょうか?悟りという観念も無いかも知れませんね。「賢は愚に似たり」ですね。
何が悟りかは難しいですが、死生観が問題ですね。淡々と生も死も受け入れる。
いくら修行しても、理屈ではいろんなことを知っていても、いざとなった時に死生観が出来ていない人が多いかも知れませんね。坐禅や瞑想、安定打坐は、基本的に死の予行演習なんです。そしてそこには生も死も存在しない世界に入るのです。
クンバハカもそうなんです。本当のクンバハカになると生も死も無い意識になる。霊体になるのですから。生も死も意識にない世界に入ると、当然、世間的な成功は何の意味もなさなくなるな。
すべての平凡な生活の情味を味わいながら淡々と、ということですね。
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