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運命

昨日の日曜行修会で、運命は決まっているか?それとも変えられるものか?分からないか?という三択で小学生レベルの質問があった。内心、「そんな小学生みたいな質問するな」と思ったが、後で質問者に廊下で私は言った。
「運命は決まっていて、なおかつ自由なものです」と。
「運命は決まっていて、なおかつ自由」という意味はおそらく分かんないだろうな~?
宇宙の基本法則の一つが因果律なのだから、その因果から離れられないという解釈からは運命は決まっていると言える。その運命にどう立ち向かうかという自由はある。
易しく言えば、スポーツと同じですね。スポーツにはルールがある。ルールという不自由さの中にどのように対処するかという自由があるわけですね。その自由度を増すために努力と訓練があるわけです。ルールが因果の法則と考えれば良いのです。
ルール(カルマから生じてくる運命)は変えられない。スマナサーナ師は言っていた。「運命の問題は、お釈迦様でも難しいと言っていたのだから、お釈迦様でも難しいものを凡人は考える必要はない。どうしても知りたければ本当に出来た坊主(悟った僧侶)に聞きに行け。それ以外は無駄」と。そういうことですね。
「人間が苦しいと思うことは神様から与えられた慈悲」とかつて亡くなった友人からの霊界通信で私は教わったわけですけど、同じことを慈悲と捉えるか、試練と捉えるか、苦しみ・不運と捉えるかは個人の選択ですね。
「どうして私はこんなつらいことばかり起きるのだろう?私は運命を呪う。」と思う人も多いけれど、同じことに、「山より大きいイノシシは出ない」と立ち向かう人もいる。それは自由ですね。その違いは未来を変える。そうすると運命は変えられるということになる。でもな~?そういうものの捉え方も過去からの因縁かも知れないし、正解は分からないと言うことですね。
ただ無念無想の状態を自由に得ることが出来るとカルマから離れることが出来る。すなわち決まった運命から自由になる。まあ、そのための坐禅であったり、瞑想であったりするわけだけど、そこまでたどり着く人はまれではあるな。もちろん私はたどり着いていない。
もう少し難しい説明をすると、30cmの物差ししか持っていない人は1kmという概念が存在しない。だからそういう人は30cmがたくさんとしか理解できない。
もっと難しい説明をすると、運命はニュートン力学的な決定論的二者択一ではなく、量子力学的なもので、「存在はしても人間の理解からは不確定なもの」と言えるかも知れない。

天風先生はこう言っている、禅宗ではこう説いているという知識では分かったことにならない。三択のうちどれを信じるかは自由だけど、小学生レベルの選択と大学生レベルの選択では選択は同じでも意味が違う。
根拠無き信念は、根拠無き楽観主義となり敗北に繋がる。それは根拠ある悲観主義より根拠無き楽観主義の方がまだ良いのは事実だけど。根拠無き楽観主義では、偶然うまくいくというフロックが存在するから。





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