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無念無想2

「立つな、坐るな、横になるな」というのは心のことを言っているのです。
一言で言えば無念無想のことですね。ひとつの状態に心を置かない。
いえ、状態というものに心を置かない。すなわち心自体が消えた状態。
柳生但馬の守が3年の修行の結果得たものは、どういう言葉であっても、たくあん和尚は「それが答えだ!」と答えたのではないだろうか?
いえ、たくあん和尚は、「分かりません!」という柳生但馬の守の言葉に対して、言ったのではなく、彼の目、姿勢、心の状態を見て、「それが答えだ!」と答えたのではないだろうか?無念無想という言葉を使えば、その答え自体、無念無想ではないから、言葉が無い。「分かりません」と表現するしか無かった。
柳生但馬の守は3年の修行で無念無想を掴んだから、たくあん和尚の所に戻ってきて、「立つな、坐るな、横になるなの意味は、分かりません」と答えたのですね、きっと。
たくあん和尚から課題を与えられた時の「分からない」と、3年修行の後の「分からない」では、同じ言葉でも意味が違う。
高校までの数学しか学んでいない人間の、「数学は分からない」というのと、数学者の数学は分からないというのでは意味が違う。まあ、それと同じですね。
「分からない」という言葉は難しい。歴史なんかもそうだよね。学校での知識とNHKドラマだけで日本の歴史は知っていると思っている人は多い。
勉強すればするほど、分からないという言葉の意味は重くなる。


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まじめな話しより

まじめな話しより、犬と人との笑えるコント?

この人、この犬とのコントで月にどれくらい稼ぐのだろう?興味あるな。
それにどうやって訓練するのだろう?

無念無想

昨日の日曜行修会で、
「天風先生の講演テープの中に、「柳生但馬の守が、たくあん和尚から、
”立つな、坐るな、横になるな!”という課題を与えられた。
その意味の答えは明日に。」ということで、そのテープはそこまでで、天風先生が次の日に、どうその意味を説明したのか分からない。
安定打坐のできる村長さん、この意味が分かりますか?」と安定打坐の時間の前に、I先生から質問を投げかけられた。
I先生に質問を投げかけられる前にその答えを考えていたが、私は答えました。
「今のところ、その答えは分かりません!」と。
で、その答えの部分の天風先生の講演テープをたまたま最近、聴いた人がいて、その意味を前に立って説明してくれました。
「柳生但馬の守は、その意味が分からなくて、答えを出そうと3年修行して、再びたくあん和尚の元に行き答えました。
「立つな、坐るな、横になるなという意味は分かりません。」と。」
たくあん和尚曰く、「それが答えだ!」と。
私としては、知ったかブッタ!をしなくて良かった~!と安堵しました。
分からないことは分からないと答えて良かったな~と思いました。
で、その答えを説明してくれた人とトイレで話す機会があり、何で、たくあん和尚は答えの無い課題を与えたのか?というのは、我の強い柳生但馬の守の我を無くすためだったと。
それを考える3年の修行の間に、柳生但馬の守は人間がまるくなったそうです。
ちなみに柳生但馬の守にこの課題が与えられた頃(3年間の修行に入る前)は、宮本武蔵は隙だらけの構えで対決者は打ち込めなかったと。柳生但馬の守はまったく隙の無い構えで打ち込めなかったと。
その時、宮本武蔵は無念無想を会得していたけれど、柳生但馬の守は会得していなかったという説明だったという話しでした。

死期

63前後は死期なんだろうな?と思いますね。昔は、この年齢ぐらいで多くの男は死んでいった。死期には、その意味の思考が自然に生まれてくるのだろう。
私は小学生の頃から、お祖母さんが死ねば、お祖母さんは既に亡くなっているお祖父さんとあの世で再会する。死ねばあの世にいるご先祖様に再会して楽しい生活をあの世ですることになるということは当たり前のように墓の前で教えられていたし、それに対して何の疑問も持たなかった。今も持っていない。
零戦の搭乗員で数少ない生き残りで撃墜王として有名な坂井三郎(大空のサムライの著者)は、「死ぬのが楽しみだ。死ねばあの世で戦友達に会えるから」と書いていた。
しかし死ぬことが楽しいという感覚は分からなかった。
最近、私が小学二年生の時に亡くなった祖母を思い出すようになった。
またあのお祖母さんに会いたいなと。お祖母さんに見守られているという感覚はいつもあったけど、あの世でお祖母さんに会えるのが楽しみだなと思えるようになってきた。それは私の年齢が作り出す思考なんだろうなと思いますね。
そういうふうに思考するようになったということは、一定の年齢でONになる生物的な遺伝子に組み込まれたひとつのプログラムなんだろうなと思いますね。
故郷の景色もなぜか今までと違う懐かしい暖かいものに感じるようにもなる。
それも死期が近づいた感覚なのでは?と思いますね。生物学的な死期だけど死ぬとは限らない。死期が20年以上続くこともある。
死期に気づけば人生の価値観の転換を計らなくてはならないのでしょう。
70過ぎても80過ぎても金欲、権力欲から離れられない人も多いけど、そういう人達は死ぬ準備をしないまま死ぬ人達なんでしょうね。そういう人達は、「人は死なねばならない」という責任を果たせないで死ぬのでは?と思いますね。

不安は完遂になる。

天風教義を学ぶ者としてはあるまじき考えなのだけれど、
「これは簡単に出来る!」と思ったもので簡単だった例しがない。
いつもとんでもない想定外の問題が次々と発生する。
「こんなの出来るかな~?」と不安に思って始めたのは、ひとつひとつ新しい発想を考えながら慎重に慎重にやるので結局出来てしまうことになる。
もちろん、これは簡単だと思ったことが、実はあの手この手で予期せぬ困難に出会うのだけれど、予想外の困難に出会ったことで、難しい問題に変身するので、結局、ぎりぎり出来ることになる。結論として、不安になったものほど舐めないで取り組むので順調に完遂することになる。




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