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記事

クリック→→小豆島の野球部員
私は新聞記事は信じない。大きく脚色されているし、創造(ねつ造)されている。まあ、それに近いことはあったのかも知れない?程度に読むのが正しい。
写真なんかもこれから写真を撮るのでこういうポーズでということで、実際の後で写真のための写真を撮るために場面を用意する。
なぜそんなことが分かるか?私も二度程そういう経験があるから。
街頭テレビインタビューなども同じで、ほとんどが売れないタレントを使ったやらせ。通行人の役ぐらいしか無い売れないタレントは1万人ぐらいいるのだから。
A新聞、B週刊誌が書いていることは、真実は記事の逆だな、と読むことが正しいことも多い。まだA新聞の記事を信じて読んでいる人がいるのが信じられないけど。
この記事の場合は分からないよ、でも都会で挫折したり、就職試験に受からなくてやむなく田舎に帰ったら、「故郷に貢献したくて帰ってきた。」と記事にはなる。
記事の言葉と実際の意味の違いを読む抜く力が必要だな。それは政治、外交問題なども同じだな。平和憲法という言葉に多くの国民は洗脳されているけど、本当の意味は被占領国憲法という意味ですね。

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教えと人数

4千人をその場で統一的に動かそうと思うと、一つのことしか指示できない。
これが千人になると二つのことを指示出来るだろう。
100人、10人、5人と人数が減るにつれて多くの指示が出来るようになる。
教えも同じで人数によって教える深さと幅が異なってくる。二百人の大衆に教える内容と4人に教える内容は当然異なってくる。
二百人の中の一人として聞いた内容が教えの全部だと思っている人は多い。
私も昼の食事の時に8~10人ぐらい集まるけれど、途中で人数が減って5人ぐらいになると、「実はね、安定打座のコツはね・・。」と頭を寄り添う距離で教えられることを教えることが多い。10人の前で話すことと4人の前で話すこととは違ってくる。早く帰った人は、勿体ないな~と思うけど仕方が無い。
人数によって教える内容深さは異なってくる。天風先生もそうだよね。
カリアッパ師とほとんど1対1で教わったようだから深く会得出来たと思うな。
カリアッパ師が毎日20人を指導していて中村三郎が単にその中の一人だったら悟るのは無理だったと思うな。
そういうことに気づかないんだよね~、天風会は。
食事時に4人程度に教えられる内容は、集中した勉強会では15人程度に教えられる内容になるな。それは環境による耳を澄ませる集中力の問題だな。

話しは変わるが、大草原を馬で走っている時は、クンバハカと無心(主に一心)が自然に出来ている。そうでなければ馬から振り落とされる。
グライダーに乗っている時もそうだね。グライダーが空気を切る音しか聞こえない静寂だな。思い出すと確かに自分が無心になるので無くて、無心(無音)の世界の中に自分が入っているという感じだな。雑念を考えると墜落するしね。
生活の中には意識をしないけれど音がいっぱいあるんだよね。蛍光灯だって音を出している。普段意識では聞こえないけど無意識世界の雑音になっている。
大学一年の時にグライダー部に入っていた。でも貧乏人には出来ないスポーツだった。お金が無いので昼は学食の素うどんしか食べられなかった。
そうだな~、思い出してみると、あの感覚だな。自分が無心になるのでなく、入ってしまう感覚だな。今になって思い出した。四次元(無念無想)、五次元の世界(神人冥合)もそうだね。自分がその中に入るんだよね。同じだな。
無心や無念無想になろうとするから難しい。その中に入っちゃえば良いけど、何かの経験が無いとその世界のイメージが作れない。経験が大事だね。
グライダーに乗っている時の感覚は忘れていたけど、無意識に経験として残っていたのかな?

面白いね~!

今回、香川県から高松商業と小豆島高校がセンバツに出るのだけれど両校の野球監督は同じ監督の下で育っているとのこと。
その監督の元で育った高校野球選手のうち8人が今は高校野球の監督になっているとのこと。良い先生に育てられるとそういうことになるんだな。
能力だけではないね。ノーベル賞も同じなんですよね。どこの国の学者も頭の良さは変わらない。でも研究する研究所の空気・研究思考法がノーベル賞受賞を取りやすくするんだよね。だから同じ研究所から何人も受賞者を輩出する。
能力より誰の元で学ぶかということが大事なんですよね。
因数分解の出来ない先生から因数分解を教わっても生徒はそれが解けるようにはならない。まあ、そういうことだな。学びにも法則がある。
禅の世界でも、「三年修行するより、三年師を探せ!」という言葉があるけど、その通りだな。私も山田先生に教わるご縁を戴かなければ天風会は辞めていた。
天風会での修練では無心までは会得できるけど、その先が会得できない。
先日、杉山会長の安定打坐の解説を行修リーダーが読んでいたけど、私はそのレベルは15~20年で会得出来たが、天風会に参加するだけでは会得出来なかったと思う。今ではその程度の違いが感覚でよく分かる。
そうか、杉山会長が会得していたレベルはそういうことかと。杉山会長が存命の頃は、私のレベルは安定打座も無心程度だったし、クンバハカもキュッ・キュッ・キュッ・レベルだった。要するに当時は何も見えていなかったということですね。
まあ、10年間は何も見えていなかったということ。12年目ぐらいからだな。
「あっ!?これだ!」と理屈では無く身体の感覚で感じ始めたのは。もちろん細々はそれまでにもいろいろあったけど。次元がひとつ上がるのに12年かかるな。昨年、またひとつ上がった。12年+12年で24年だな。次の12年後にはどんな世界が見えているのだろう?

出来ること、出来ないこと、

安定打坐は起きている状態と、寝ている状態の境をグライダーに乗ってスーッと飛んで行く感じ。で、気づいた。仕事も出来ることと出来ないことの境目の仕事をすることなんだなと。人間、出来ることは自分からしなくて良い。
自分がいつでも出来ることは、人の成長のために人に任せてやらせることが大事。私も今更、人の上に立つことはしたくない。
霊視能力者にも言われた。「いつでも出来ることはする必要は無い」と。
しかし出来ないことをやれ!と言われても、例えば私に100mを10秒で走れ!と言われても、そんなのいくら努力しても出来るはずが無い。
「人の持っている時間は限られているのだから、努力しなければ出来ないことは最初からするな!努力しなくても出来ることを努力してやれ!」と子供世代には言っているのですが。イチローや松井や長嶋も王もそうだったと思いますよ。努力しないでも人並み以上に出来た。その中で努力したから一流中の一流になれたと思いますね。
(まあ、才能があるから努力も出来る。才能の無いことは努力も出来ないという説や努力も才能の内という説もありますが。)
若い時はそれで良いけれど、ある程度歳を取ったら出来ることをしていても成長が無い。成長するためには常に出来ないことに挑戦しなくてはならない。
しかしあからさまに出来ないことをしても時間とエネルギーの無駄。
ではどうするか?で、気づいた。前述のように、出来ることと出来ないことの境目のことをやるべきなんだな、と。一流は常にそれにチャレンジしている。
自分に出来ることは人に任せれば良い。
それにしても心を病んでいる人はチャレンジをしないよね。
まあ、出来る同じことを千回一万回と繰り返すことで開悟する世界もありますから、物事によりますけどね。バトン・タッチしていかないといけない仕事は、任せ切る勇気が必要ですね。

応援

ネットにこういう書き込みがあった。
「対戦相手が『震災枠』の釜石だと
観客の大半もテレビも新聞も全部釜石を応援する
完全アウェーの中での試合だろうけど頑張ってほしい 」
そうだよね~。釜石からの直接の応援団の人数は少ないかも知れないけど、関西のボランティアが釜石応援席に入るかもね。もうボランティアの熱気も冷めているような気もするのだけれど、多くのボランティアが釜石の応援席に座って欲しいと思いますね。釜石の人達も勇気づけられる。それもドラマになるね。
島からフェリー4隻、バス50台でやっくる島応援軍団に対してボランティア応援軍団だな。応援団としても、もうひとつの戦いだな。私が今、応援団長なら最高に燃えるな。練習無しで5000人を統一的に動かすことは難しいが、知恵を出して応援としては勝つことを考えるな。


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