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モンゴルのバワー・スポット

モンゴルのパワー・スポットに関して同じ場所の新しい話がブログに載っていました。一部抜粋しました。女性の感性は面白いですね。男はこういう感覚や思考は出てこないのではないでしょうか。
【パワースポット・ハマリンヒード寺院近くの「エネルギーセンター」でエネルギー充填してきましたよー。天候に恵まれ、あっちっちーな中で寝転んだエネルギーセンターは、相変わらず、というか去年よりもビリビリ感があり、なんか、岩盤浴状態。気持ちよかったです。夜明けも堪能しました。パワースポットは人を積極的で前向きな気分にしてくれるし、過去の厭なことときっぱり縁を切るには最適な場所だと思いました。】
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変化

モンゴル在住日本人のブログを読んでいると私にとっては面白い。まもなく絶滅するモンゴル北方少数民族トナカイ遊牧民ツァータンに会いに行った記事と写真が載っている。ツァータンはシャーマンでも有名だ。フランス人、ドイツ人もそこにいたという。ドイツ人の一人は、そこでシャーマンの弟子になって教わっているという。そのシャーマンには弟子が25人いてそのうち8人は外人だと書いている。まるで日本の相撲みたいだな。
昨年私がモンゴルの僻地(チンギス・ハーンの生まれた土地)に行ったときもフランス人が川釣りに来ていた。白人の旅行者も多くなってきている。モンゴルに旅して白人を見るのは観光地化されすぎたイメージで、なおかつ何となく大地が穢れる感じ(神聖な大地がただの大地になってしまう感じ)がして正直楽しくない。仕方ないが。2000,2001,2002年と3年連続でモンゴルに行ったがモンゴルの素朴さの最期だったかも知れない。良い時に行けたと思う。
そのブログを見ていると、「あれ?ツァータンが湖の傍にいる?夏に山を下りている?なぜ?」と疑問を持った。私の知っている知識と違う。きっと山を下りることで観光客から取れるお金が増えるからだな。2002年でもすでにツァータンは観光化していたけれど、現金のためにますます観光化してきているんだな。
ブログによるとそこにいたフランス人はミュージシャンで、「日本は世界で最も文化の高い国だ」と言っているそうです。私もそう思います。
私がこの半年考えてきたことは、「なぜ神は、白人という最も野蛮な人種に文明を与えたのか?」ということでした。

何でも難しい

学生時代に卒業研究としてアイシュタインの「一般相対性理論」を1年間本当によく勉強したけれど、結局、私の頭では理解できないという結論を持って卒業した。
天風教義も時間が経てば立つほど分からなくなる。分からないと言うことが分かってくる。悟らないと分からないものかも知れませんね。
仕事も、やればやるほど分からないことが増えてくる。例えば、金属は、特にアルミは熱をよく伝えるという常識やデータがあります。しかし前に進めば進むほど金属は熱を伝えないということが分かってきて技術の壁にぶつかっている。金属の中で熱が伝わらないで熱がこもるのです。アルミの金属を均一な熱分布にするというのは本当に難しい。エアコンで部屋のすべての場所で温度を0.1度の誤差の中に一定にするということも実は本当に難しい。金属もそれと同じですね。まあ、私はエアコンで冷房の効いた部屋の真ん中でストーブを炊きながら部屋全体をどの場所でも誤差0.1度以内の均一の温度にするというような技術を追求しているようなものですから。何でも一定のレベル以上の段階になると本当に難しくなる。
どの世界でもあるレベルを越えると常識というものが消え失せる。
「結局、何もわからなかったなぁ~!」というのが私の人生の結論になるのだろうか?せめて何かひとつは極めたいと思っているのだが・・・。
何でも啓蒙書レベルの本を読んで分かっているつもりになっているときが一番幸せだ。その本に書かれている一行一行を自分で証明をしようと始めると苦労の度つぼに嵌ることになる。

仮我、実我、真我

天風会では、我には「仮我(かが)、実我(じつが)、真我(しんが)」の三つがあると教えています。そして仮我は順動と逆動に別れています。そのことは会でまま説明されるが他の二つは具体的には教えないというか教えられない。この三つを村長さん流に分類してみましょう。

仮我は言葉を持っています。そして思考は言葉によってなされます。
プラス思考の言葉や思考が順動仮我、マイナス思考が逆動仮我ですね。

実我は言葉を持ちませんが、感覚・感情(高品質の感情)と直感があります。
明るく朗らかに活き活きと勇ましくの言葉無き姿勢ですね。すなわち絶対積極心ですね。
それと真我経由で宇宙霊から入ってくる直感ですね。それは天風教義の言うところの霊性心ですね。言葉がないと批判、批評、愚痴、比較というものも無くなってくる。なぜならそれらは言葉によって頭の中でなされているのだから。

真我は言葉も感覚・感情もありません。人間の思考や感覚器官では捉えることができないものです。悟ったときに分かるものかも知れませんが私は悟っていないので分かりません。でもそれは宇宙霊(宇宙創造の大元)と繋がっている言葉も感覚もない「いのち」のエネルギーそのもの。そのエネルギーは宇宙意識(神意識)から来ている。
これが村長さん流分類ですね。
だから、「私がわたしであるもの」という言葉は、裏に隠れている実我を自分の表に呼び出すおまじない(マントラ)ですね。実我は言葉が無いので言葉無き状態、すなわち無心になるのです。
分かるかなぁ~?こういうの。こんな説明、天風会では聞けない。

中国料理とフランス料理

「私がわたしであるもの」
と心の中でつぶやくと無心になれる。これはいつでもどこでもできる。心の中でつぶやくだけだから。しかし安定打坐を朝または夜に正式にするときはこれをつぶやいてはいけない。天風会の教えるブザー方式とこれを同時に行ってはいけない。それは中華料理とフランス料理を同時に口の中に入れるようなものだからです。それぞれ一流の料理だがそれらを口の中で混ぜてはいけないのと同じですね。ホ・オポノポノのヒューレン博士が、「ホ・オポノポノの瞑想をするときは他の瞑想法をミックスしてはいけない」と言っていたことの意味が分かりました。曹洞宗の坐禅をするときは心の中でもその流儀に従うべきで、その時、より深く無心を取ろうとして、天風会流ブザーの音を心の中でイメージして無心を取ってはいけない。どちらが良い悪いではなく、二つは波長(味)が違うのです。別の言い方をすれば、演歌をオペラ歌手がオペラ流に歌うと演歌の心が伝わらないということですね。演歌は演歌で、オペラはオペラで素晴らしいものなんですね。
以前から天風会で安定打坐をするときにヨガ瞑想方式の両手を膝の上に乗せ、手のひらを上に向けて瞑想をする人が時々いますが、無心になれれば別にどの方法でも構わないと思いつつも、なんか違和感を感じていたのはそういうことだったんですね。


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