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求めよ、さらば与えられん

「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉あります。またしばしばそう本に書かれています。でも、私は一度もそういう求めて得られた経験はありません。失敗すると考えても失敗する。うまくいくと考えても失敗する。何も考えていない時のみ、うまくいく。要するに無心の時だけ、縁が転がり込んでくるし、何かがうまくいく。意識することはうまくいかない。
大学受験も受かりたいと思った大学は落ちた。当然合格したと思った大学も落ちた。受験した後、忘れてしまった大学だけ受かった。受験の最中に何も考えないで問題を解いたのが良かったのかも知れない。その後の人生もそんなことの繰り返しだった。
「無心」こそが要諦のようなんですけどね~。要するに、「どうでもいい」という心。どうでもいいという心と同時に全力ですね。どうでもいいと思うから力が出るのかも知れない。意識していると力が入って、分かっていることも問題の読み間違いをするのかも?心の力が抜けていないと実力が出ないのかも知れないし、実力が出るまで勉強や努力をしていないということかも知れないし。まあ、たいして勉強しなかったというのが事実であり真実ですけど。
心の病になる人は、求めすぎていますね。「自分を分かって貰えない。」、「自分を分かって欲しい。」、「私はこれは嫌だ」、「あ~でないといけない。こうでないと満足が得られないの」のオン・パレードですね。
求めることを放した時に自由になるのに。
だから、「求めよ、さらば与えられん」というのはどういう意味なんだろう?
「与えよ、さらば与えられん」という方がまだ理解できるけど。
「自分の顔は自分のもので、他(ひと)のもの」という言葉が近くのお寺の今月の言葉として飾られています。どういう意味なんだろう?始めて意味の分からない言葉が出てきた。
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滝瞑想

滝瞑想の参加者は17人でした。数え間違いをしていたらしい。男6人、女11人。
おばさんの人数を数えるのはいい加減になっているな。女11人ということは、えっ、人数的には日曜行修会の女性参加者の半分近くになってしまう。あららら!
「あんた達は、どうでもいいの!あっち行け!」という年齢のおばさん達が集まってくる。「来て!来て!」と来て欲しい若い女性が集まって来ないのはどうしてだろう?
若い女性達にも、「あっち、行け!私の傍に来るな!」と思えば来るのかな?はは
私は公言しています、「女性に関してだけは悟っていない」と。若い女性に対しても、おばさん達に思う心と同じ心を持つと悟りかな?ようするに、「どうでもいい」という心ですね。悟りとは寂しいね。はははは。
もともと、天風会には若い女性がほとんどいないのが原因ではあるけどね。好みの若い女性が傍に来るとオロオロ、しどろもどろ、心臓パクパクしてしまうという現実はこの歳になっても無くならないな~、どうしてだろう?縁なんてもう無いのに。大抵のことにはオロオロしないけれど、誰が傍に来ても無心、にはまだなれないな~。
雄の遺伝子がそうなっているからと言えばそれまでだけど、悟りとは遺伝子の枠を越えることだね。

本物に出会う幸せ

生きていて楽しいと思うときは、「本物」に出会った時ですね。人でも芸術作品でも自然の景色でも、本物に出会うことは喜びですね。
自分にとっての本物の人に出会うことが、人の生きている目的でもあります。自分にとって本物は、大物という意味ではありません。一番大切な人という意味ですね。
偽物とばかり遊んでいると本物に出会ったときに本物だと分かりません。気づかずに本物(大切な人)を逃がしてしまいます。または本物に、「あなたは偽物だ」と捨てられる。だから偽物は偽物としか付き合えないですね。本物は偽物とは付き合ってくれないのだから。本物と縁を持つには自分も本物にならないといけないですね。
偽物は本物になる努力をしないと。それは誰にでもその気になれば出来ることです。でも、偽物は自分は本物だと自己認識の間違いをしているから問題が起きる。
心の病はそういうところから起きることが多いな。心の病は自己認識肥大症でもあるな。自分を放してものを考えることが出来ないから。若い時はみんなそうだけど。
「己を忘れてものを見よ。ものを忘れて道を見よ」
という言葉に本物という意味は集約されるな。

たくさんある本物のブランドの中に一個だけ偽物が入っていると、その偽物は本物として扱ってくれるチャンスが出てくる。たくさんの偽物の中に一個だけ本物があっても、その本物は偽物として扱われる。
今、自分は偽物でも本物の中に入っていると、本物に染まっていずれ本物になるかも知れない。または本物と区別が付かなくなる。
偽物が本物を価値判断するという本末転倒のことが人の世の中で行われている。
と書いても意味が分からないだろうな~。「そうだ、そうだ、その通り!」と偽物が自分が本物だと思って他を評価している。

滝瞑想10/28(日)

滝瞑想の参加予定者が17人になった。男6人、女11人。この辺がもう限界だな。これで募集締め切りです。(ただし若くて美人は別枠で認めます。ははは)
一人で全体を見るには15人が限界です。軍隊で言えば最小単位の1分隊ですね。犬山城勉強会も定員15人にしているのはそういうことです。
私から滝瞑想で、「地の声」、「天の声」の聴き方を学べる人は幸せだと思うな~。
そういうのを聴く方法を先生方から教えて貰ったことは無いですね。私は3年間の滝行でコツを掴みました。
滝瞑想は3回します。まず普通に滝の音を聞きながらの瞑想。次に「地の声」を聴く瞑想、その次が「天の声」を聴く瞑想になります。滝の音だけでなく、小鳥のさえずり、風の音など自然の中で自分が自然の一部となって聴きます。篠島では海岸で、「地の声」の聴き方を教えました。「地の声」は肉耳で聞きますが、「天の声」は心耳で聞きます。肉耳で聞こえているがごとく心耳で聞こえてきます。
「天の声」の聴き方は普通の人には発想できない方法で行います。私は天の才?
才と災は紙一重?主流派から見れば「天の声」の聴き方なんか、あり得ない話し?
一般には教えられない内容になりますね。なぜならそれが、「出来ない」、「分からない」、「そんなの聞こえるはずがない」という雑念になるから。瞑想が熟達するまでは滝の傍では指導者に従ってやらないといけないですね。滝は滝の中に入らないでも危険な場合もあります。だから人数が多いと問題なのです。

睡眠

私も22歳ぐらいまでは布団に入っても1時間、2時間と寝られなかった。大学4年の時にビルの窓拭きとトイレ清掃のアルバイトを1年した。1ヶ月か2ヶ月経つと、夜、”あっ”いう間に寝られるようになった。肉体的疲労と神経の集中(神経を集中しないとビルの窓から落ちて死んでしまう。)による精神の疲れが毎日コンスタントにリズム的に継続すると寝られるようになった。一度、寝られるようになるとその癖が何年もずーっ続く。夏以外今も続いている。
不眠症だという人は肉体と神経の同時継続的疲労をすれば寝られるようになる。ただ、散歩程度ではダメかも知れないけれど。
小学3年生の時に隣の席に座った悪ガキが早飯食いだったので、そのリズムが移って私も早飯食いになった。それからずーっとその癖が続いている。一度癖が付くと続くようだ。整理整頓するという癖を付けるチャンスは無かったな。良い癖を小さい時か若い時に付けないといけないな。そのためにも友人は選ばないといけないな。
子供の頃、友達は選ばないといけないという先生の話しに対してずいぶん反発を感じたけれど、それは田舎では私の周りに悪いのがいなかったからですね。やはり言葉の遣い方が汚い人は友人に選ぶべきではないとこちらに来て思いますね。
なぜなら言葉が自分の環境や人生を創るという面は大きいのだから。





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