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心と身体(からだ)

「心の問題は身体で治し、身体の問題は心で治す」と杉山会長(当時)が言っていた。ある本を読んでいると同じ事を書いているのがあった。彼は天風会員であったことがあるのだろうか?中村天風にも言及している部分がある。
心を病んでいる人は汗をかくことをしないね。自然の中、山の中を歩いて汗をかくことは精神的にとても良い。私も高校三年の時、浪人時代は何回、星ヶ城に登ったか知れない。自転車でハアハア言いながら登れるだけ登って、後は歩いた。寒霞渓から頂上の星ヶ城まで歩いた。本当に心が苦しい時は自然の中をひたすら歩くことですね。景色や太陽を見ながら歩くことです。
それでその時には答えは何も出ないけど、何とか自分を支えられる。
モンゴルでは心が苦しい時は、馬で草原をひたすら走るらしい。
部屋の中で薬を飲んで治そうとするから治らない。薬は脳を麻痺させて機能を低下させ一時的に楽になったと錯覚をさせるだけだから。緊急避難で薬は必要な時もあるが。脳の機能が正常に働いた状態で自己修正をしないといけない。そうしないと統一された人格が出来ない。薬は脳を壊すことで見た目おとなしくなるだけだから、人格の破壊ですね。
昔(もう15年くらい前の話なので時効だと思うので書きますが)、ある鬱病の女性をレーナ・マリアさんのコンサートに連れて行ったことがある。両手片足の無い女性が明るく元気に美しく歌う姿を見せれば勇気が出るだろうと思って。
で、彼女が帰りに言った言葉は、「レーナ・マリアさんは手足が無いだけで心は病んでいない。心を病んでいる方が遙かに苦しい」と私に言った。私はその言葉を聞いて愕然とした。心を病んでいる人は、感謝とか感動するという要素が壊れていると知った。(それから半年か1年フォローして、○○さんが私の鬱病を治したと人に話して良いと彼女は私に言った。1年、2年ずーっとフォローしてそれだけの結論かよ?とは思ったけど。まあ、天国への貯金だと思って・・・。)美しい景色を見せても何も感動が無いケースもあったな。
作家の五木寛之氏がひどい鬱病にかかって、3回目は自分で感謝ノートを作り、毎日、感謝出来る項目を考えられるだけ書いて鬱病を治したと本に書いていた。
ある鬱病の人に、「感謝ノートを作って、毎日、同じ事でも良いから30項目以上書け」と言ったら、「感謝することなんか何も思いつかない」と彼は言った。
いろいろ説明したら納得したようで、ほんの少しは書き始めたらしい。そのうちに家から出られるようになった。でも、私に対する感謝は何も無かった。まあ、そんなことはどうでも良いことだけど。
次に電話が掛かってきた時に、数項目しか感謝の項目が浮かんで来ないと言うのでまた説明し直して、「毎日、30項目以上書いて、ノートが一杯になるまで電話してくるな!」と言った。それから私には電話をしてこなくなった。「村長さんに嫌われた」と人に話しているようだった。
心の病というのは感謝するという脳の部分が壊れていることなのかも知れないと思うな。だから五木寛之氏のように強制的に感謝項目を作りだしていると脳が再生するのかも知れない。(本当は、感謝する項目を50~100ぐらい毎日書く。)
心を病んでいる人から、いくらどれだけのことをして上げても、「ありがとう」の言葉をほとんど聞いたことがない。それとある耳の聞こえない障害者に、あの手、この手で親切にしても一年間、一度もありがとうの言葉は出てこなかった。ちょっとしたことで、「○○さんに冷たくされた」と人に告げ口をしていた。
運命というか、カルマというか、感謝と感動が基本だと思いますね。親切にされての感謝と感動、美しいものを見ての感謝と感動、毎日、普通に呼吸が出来ていることに感謝と感動、毎日、普通に布団の中で暖かく寝られることに感謝と歓喜ですね。
それにしても、「鬱病の治療法は、感謝ノートを書くこととハイキングです」なんて言ったら医者と製薬会社はお金にならないな。

この文章を普通の人が読むと、「村長さんて、なんて底無しのお人好しなんだろう?」と思うかも知れないが、鬱病の人が読むと、「何もわかっていない!感謝ぐらいしているわよ!何でそんなこと書くの!」と怒りがこみ上げてくるかも知れない。それぐらいの認識の違いがありますね。唖然、呆然とするほどに私が責められることがある。親切や思いやりのつもりが、あだになることはしばしばありますね。

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有名な詩

私もこの詩は15年ぐらい前にある本で知ったものですが、いろんなところで引用されていますね。どこかで少なくとも一度は目にしたことがあるとは思いますが。
そーですね~、大抵の人生はそういうことですね~!
【神の慮り(おもんばかり)(ある病者の信条)  作者不詳

おおきな事を成し遂げる為に
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった
より偉大な事が出来るようにと、健康を求めたのに
より良き事が出来るようにと、病弱を与えられた
幸せになろうとして、富を求めたのに
賢明であるようにと、貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに
得意にならないようにと、失敗を授かった
人生を楽しもうと、たくさんのものを求めたのに
むしろ人生を味わうようにと、シンプルな生活を与えられた
求めたものは何一つとして与えられなかったが、
願いは全て聞き届けられていた
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されていたのだ】


「求めよ、さらば与えられん」という言葉とどう整合性を取れば良いのだろう?
確かにね~、欲しいものは与えられないけど、学びのために必要なものは与えられるというのは実感としてありますね。学びとは、「謙虚」ですね。
私も昔に比べれば、ずいぶん謙虚になったし、喧嘩(論争)もしなくなったな。
私もね~、正直なところ、女性を口説くこと以外は何でも出来ると思っていた。
「私がやれば何でもうまく行く!」と40ぐらいまでは自信を持っていた。いろんなことをしてきたから。しかし40過ぎて、なかなか思うようにはいかなかったな。
40才までの計画では、今頃は日本とアメリカとヨーロッパに30人ずつの会社を作っているはずだったのに。私は今も走り続けている挑戦者だから、規模はもう追わないけれど、まだまだ可能性は残っている。答えは出ていない現在進行形だから。

求めよ、さらば与えられん

「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉あります。またしばしばそう本に書かれています。でも、私は一度もそういう求めて得られた経験はありません。失敗すると考えても失敗する。うまくいくと考えても失敗する。何も考えていない時のみ、うまくいく。要するに無心の時だけ、縁が転がり込んでくるし、何かがうまくいく。意識することはうまくいかない。
大学受験も受かりたいと思った大学は落ちた。当然合格したと思った大学も落ちた。受験した後、忘れてしまった大学だけ受かった。受験の最中に何も考えないで問題を解いたのが良かったのかも知れない。その後の人生もそんなことの繰り返しだった。
「無心」こそが要諦のようなんですけどね~。要するに、「どうでもいい」という心。どうでもいいという心と同時に全力ですね。どうでもいいと思うから力が出るのかも知れない。意識していると力が入って、分かっていることも問題の読み間違いをするのかも?心の力が抜けていないと実力が出ないのかも知れないし、実力が出るまで勉強や努力をしていないということかも知れないし。まあ、たいして勉強しなかったというのが事実であり真実ですけど。
心の病になる人は、求めすぎていますね。「自分を分かって貰えない。」、「自分を分かって欲しい。」、「私はこれは嫌だ」、「あ~でないといけない。こうでないと満足が得られないの」のオン・パレードですね。
求めることを放した時に自由になるのに。
だから、「求めよ、さらば与えられん」というのはどういう意味なんだろう?
「与えよ、さらば与えられん」という方がまだ理解できるけど。
「自分の顔は自分のもので、他(ひと)のもの」という言葉が近くのお寺の今月の言葉として飾られています。どういう意味なんだろう?始めて意味の分からない言葉が出てきた。

滝瞑想

滝瞑想の参加者は17人でした。数え間違いをしていたらしい。男6人、女11人。
おばさんの人数を数えるのはいい加減になっているな。女11人ということは、えっ、人数的には日曜行修会の女性参加者の半分近くになってしまう。あららら!
「あんた達は、どうでもいいの!あっち行け!」という年齢のおばさん達が集まってくる。「来て!来て!」と来て欲しい若い女性が集まって来ないのはどうしてだろう?
若い女性達にも、「あっち、行け!私の傍に来るな!」と思えば来るのかな?はは
私は公言しています、「女性に関してだけは悟っていない」と。若い女性に対しても、おばさん達に思う心と同じ心を持つと悟りかな?ようするに、「どうでもいい」という心ですね。悟りとは寂しいね。はははは。
もともと、天風会には若い女性がほとんどいないのが原因ではあるけどね。好みの若い女性が傍に来るとオロオロ、しどろもどろ、心臓パクパクしてしまうという現実はこの歳になっても無くならないな~、どうしてだろう?縁なんてもう無いのに。大抵のことにはオロオロしないけれど、誰が傍に来ても無心、にはまだなれないな~。
雄の遺伝子がそうなっているからと言えばそれまでだけど、悟りとは遺伝子の枠を越えることだね。

本物に出会う幸せ

生きていて楽しいと思うときは、「本物」に出会った時ですね。人でも芸術作品でも自然の景色でも、本物に出会うことは喜びですね。
自分にとっての本物の人に出会うことが、人の生きている目的でもあります。自分にとって本物は、大物という意味ではありません。一番大切な人という意味ですね。
偽物とばかり遊んでいると本物に出会ったときに本物だと分かりません。気づかずに本物(大切な人)を逃がしてしまいます。または本物に、「あなたは偽物だ」と捨てられる。だから偽物は偽物としか付き合えないですね。本物は偽物とは付き合ってくれないのだから。本物と縁を持つには自分も本物にならないといけないですね。
偽物は本物になる努力をしないと。それは誰にでもその気になれば出来ることです。でも、偽物は自分は本物だと自己認識の間違いをしているから問題が起きる。
心の病はそういうところから起きることが多いな。心の病は自己認識肥大症でもあるな。自分を放してものを考えることが出来ないから。若い時はみんなそうだけど。
「己を忘れてものを見よ。ものを忘れて道を見よ」
という言葉に本物という意味は集約されるな。

たくさんある本物のブランドの中に一個だけ偽物が入っていると、その偽物は本物として扱ってくれるチャンスが出てくる。たくさんの偽物の中に一個だけ本物があっても、その本物は偽物として扱われる。
今、自分は偽物でも本物の中に入っていると、本物に染まっていずれ本物になるかも知れない。または本物と区別が付かなくなる。
偽物が本物を価値判断するという本末転倒のことが人の世の中で行われている。
と書いても意味が分からないだろうな~。「そうだ、そうだ、その通り!」と偽物が自分が本物だと思って他を評価している。


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