忍者ブログ

カレンダー

03 2024/04 05
S M T W T F S
20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

リンク

カテゴリー

フリーエリア

最新CM

最新記事

最新TB

プロフィール

HN:
村長さん
性別:
非公開

バーコード

RSS

ブログ内検索

アーカイブ

最古記事

忍者アナライズ

[3822]  [3821]  [3820]  [3819]  [3818]  [3817]  [3816]  [3815]  [3814]  [3813]  [3812

今中の今

「存在するのは今の中の今だけ。過去も未来も存在しない。」という説がある。理屈上は確かにその通りなんですが、本当にそれを口にしている人は納得しているのかな?屁理屈で納得しているだけかも?you-tubeを見ていると時間は人間の錯覚的存在という学者もいますが、錯覚という時間の流れによって成り立っている思考も錯覚、それに基づく結論も錯覚、自分の存在も錯覚ですね。錯覚という存在が他を錯覚として認定できるのか?自己存在の証明というのは結構難しいものです。
「我、思う。故に我有り。」と有名な言葉があるけど、自分の思考が錯覚ならどうなる?まあ、私も大学一年の時、そんなことばっかり考えていたな。ほとんどノイローゼ?
突然何かの理由で記憶を失った時、過去も自分の名前も、かつて持っていたであろう未来への夢も目標も存在しない状態では、”今”という瞬間の存在しか無い。あなたはあなたですか?あなたとは何ですか?と問われてどう答えられるのか?ですね。ひょっとしたら言葉も失っているかも知れない?その人には、 ”今”という存在しか無い。名前は時間のある世界でしか意味が無い。
それは真実の自分か?人間のアイデンティティは経験の記憶によって存在していると思うんだよね。それに人は人生の記憶を抱きしめて死んでいく。その多くは仕事ではなく家族の記憶だと思うんだよね。自分の子供の時の記憶、または自分が産んだ子供の小さい時の思い出なんだと思うんだよね。だから一番大事なのは、”思い出”じゃないかな?今の瞬間、瞬間が思い出になっていく。だから今が大切なんだよね。
でもそれは三次元に生きている時の話しだな。四次元、五次元の世界になるとまた話しは違ってくる。難しい理屈になって普通の人には理解出来なくなる。
四次元、五次元空間での理屈を三次元の普通の人に持ち込むと問題だ。
仏教の僧侶には笑いとか笑顔が無いよね。いつも真剣な顔をしている。
それを乗り越えて良い笑顔の僧侶もまれにいるけど、乗り越えているんだよね。
PR

Comment
お名前
タイトル
文字色
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
非公開コメント

忍者ブログ [PR]

graphics by アンの小箱 * designed by Anne