早くも正月4日になりました。昨年12/31岡山駅から岡山港までタクシーに乗りました。運転手の言うことには前日、小豆島に向かう日本語ぺらぺらのスリランカからのお坊さんを乗せたと。詳しく聞いているとどうもスマナサーナさんらしい。師は小豆島に何度も行っているという。なぜなんだろう?小豆島はスマナサーナさんにとって居心地が良いのだろうか?運転手はネパールに行ったとき、登山の合間に寺巡りをしてネパールの一番偉いお坊さんにも会ったという。「ほお~、昨日はスマナサーナさんを乗せて、今日は私を乗せて、ネパールでは一番偉いお坊さんに会うなんて、良い人生を送っていますね~、縁ですね~!」と話した。それに彼は若い頃、休みごとに小豆島(橘地区の親指岳)に行って登山の練習をしたと。その仲間の内、二人が世界的に有名な登山家になったとも言っていました。「今、タクシーの運転手をして稼ぐお金はすべて人を登山に連れて行くための資金作りに使っています。」「小豆島の人には大変お世話になりました。小豆島の人をお客に乗せるのは大変うれしいんです。」そんな会話をしているうちにフェリー乗り場に着きました。元旦にスマナサーナさんの滞在しているかも知れない小豆島大観音という所に行ったけれどその様子は見受けられませんでしたが、ただその大観音とスリランカは大変深い関係があることが分かりました。
今回の帰省で小豆島で火事で亡くなった事例を友人に聞いてみました。私の仮説とまったく一致していました。そして逆に、「積善の家に余慶有り」ということも強く確認出来ました。
また、人生とはどれほど運命で決まっているのか、選択による自由度がどれほどあるのか改めて考えさせられました。そしてやっぱり運命って決まっているのか、運命を選択できるのか分からないということですね。そして私としてはちょっと胸痛むことを30数年ぶりに知ることになりました。
人の幸せとは何なんでしょう?自分の魂が満足することが幸せなんでしょうが、ほとんどの人は自分の魂の声が聞こえません。誰もがただ自分の生活や未来により良いと思う選択をしてきていることだけは間違いが無いのですが・・・。それにしても人生は意のままにならぬことが多いですね。それから解放されるには、発想の転換をして、意を捨ててただ流れを受容する、全力で受容する。そういうほうが人生うまくいくかも?受容とは、何事に対しても感情的にならず好き嫌いを思わず目の前に起きることに対して誠実に対処し、できることなら陰徳を積むことですね。陰徳は孫の代やひ孫の代にお返し(余慶)があるような気がします。