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今も勉強

板橋区夜間大学光学基礎講座全4回というのに参加している。まあ、数十年前に学んだ内容の復習として参加しているのだけれど。勉強することは楽しいことだ。全4回で、まあ光学の基礎概念を説くのだから途中はすべて省略になるけど、結論の式に従えば簡単な光学設計というかレンズ設計ぐらいは出来るのだが、私は、やはり途中の式をすべて自分で証明しながら進まないと自分のものにならないのが改めて理解した。(昔、一度やっているれどもう忘れた。)
まあ、それにしても数学がもっと出来たら良かったのにと思う。大学2年というか3年というか、その段階で数学が付いていけなくなった記憶がある。数学も物理も数式を見て頭の中に数式の意味のイメージが出来ないと前に進まない。本当に真剣に時間をかけて勉強しないとそれは出来ない。1ページの理解(すなわち自分で証明する)に一週間かけるのも普通だった。物理や数学を勉強する者は、若干の家庭教師ぐらいを除いてアルバイトなんかしていたら付いていけなくなると言われていた。だから貧乏人は数学や物理の学者にはなれない。まあ、それは正しかったな。
まあ、そんな話はどうでも良いけど、やはり勉強は楽しいね。いや~、歳とともに勉強というものが楽しくなってきたね。学生時代は勉強は、まあ、好きな方ではなかった。小学生の時なんか家で勉強した記憶がない。学生時代に今ほど勉強が楽しかったらと思うね。
今でも毎週土曜は英語の勉強をしているけど、どうして進歩しないのだろう?と思うね。やはり頭が悪いんだと思う。結局、数学も物理も英語も出来なかったということだな~。今からでももう一度もっと集中して勉強したいと思うね。







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帝国

アメリカはローマ帝国の再現を目指し、中国はモンゴル帝国の再現を目指しているのかも?アメリカのパックス・アメリカーナは限界が見え始めてきた。まだ軍産複合体はまだ諦めないとあがいているようだけど、誰の目から見ても限界が近づいている。
中国は今のところ見た目、昇り龍だが、これもまたいずれ限界が来るだろう。
中国の歴代の皇帝で漢民族出身はほとんどいない。秦の始皇帝も漢民族ではない。でも中国では始皇帝もチンギス・ハーンも中国人だと言っている。異民族から支配されたとは思いたくないから、支配者をみんな中国人にしてしまう。モンゴル帝国の版図は中国帝国の版図であったと信じ、その再現を目指している。
日本が無くなっても日本人は存在するが、アメリカが無くなるとアメリカ人という存在は無くなってしまう。アメリカ人という民族は存在しない。中国人という民族も本来存在しない。しかし彼らは中国人でないものを中国人にしてしまうという思考習性があるので、中国人(疑似民族)という存在を作ってしまう。というか中国人という定義は日本人が考える日本人という民族意識とはまったく違うもののようだ。日本人には理解できない概念だな。中国が無くなると中国人というのは存在するのだろうか?不思議だ。
満州(マンチューリア)というかつての国名、または地名は、文殊(マンジュ)の国という意味だったんですね。







ジョブズ氏と禅

参考です。この情報を教えて貰いました。
http://www.cnn.co.jp/fringe/30004202.html

ゼロックスのコピー機の発明者であるチェスター・カールソンも禅堂に長年通っていたのでしたね。
禅は秀才をより秀才に、天才をより天才に、そして凡人はそのまま凡人に、かも~?













運命

昨日の日曜行修会で、運命は決まっているか?それとも変えられるものか?分からないか?という三択で小学生レベルの質問があった。内心、「そんな小学生みたいな質問するな」と思ったが、後で質問者に廊下で私は言った。
「運命は決まっていて、なおかつ自由なものです」と。
「運命は決まっていて、なおかつ自由」という意味はおそらく分かんないだろうな~?
宇宙の基本法則の一つが因果律なのだから、その因果から離れられないという解釈からは運命は決まっていると言える。その運命にどう立ち向かうかという自由はある。
易しく言えば、スポーツと同じですね。スポーツにはルールがある。ルールという不自由さの中にどのように対処するかという自由があるわけですね。その自由度を増すために努力と訓練があるわけです。ルールが因果の法則と考えれば良いのです。
ルール(カルマから生じてくる運命)は変えられない。スマナサーナ師は言っていた。「運命の問題は、お釈迦様でも難しいと言っていたのだから、お釈迦様でも難しいものを凡人は考える必要はない。どうしても知りたければ本当に出来た坊主(悟った僧侶)に聞きに行け。それ以外は無駄」と。そういうことですね。
「人間が苦しいと思うことは神様から与えられた慈悲」とかつて亡くなった友人からの霊界通信で私は教わったわけですけど、同じことを慈悲と捉えるか、試練と捉えるか、苦しみ・不運と捉えるかは個人の選択ですね。
「どうして私はこんなつらいことばかり起きるのだろう?私は運命を呪う。」と思う人も多いけれど、同じことに、「山より大きいイノシシは出ない」と立ち向かう人もいる。それは自由ですね。その違いは未来を変える。そうすると運命は変えられるということになる。でもな~?そういうものの捉え方も過去からの因縁かも知れないし、正解は分からないと言うことですね。
ただ無念無想の状態を自由に得ることが出来るとカルマから離れることが出来る。すなわち決まった運命から自由になる。まあ、そのための坐禅であったり、瞑想であったりするわけだけど、そこまでたどり着く人はまれではあるな。もちろん私はたどり着いていない。
もう少し難しい説明をすると、30cmの物差ししか持っていない人は1kmという概念が存在しない。だからそういう人は30cmがたくさんとしか理解できない。
もっと難しい説明をすると、運命はニュートン力学的な決定論的二者択一ではなく、量子力学的なもので、「存在はしても人間の理解からは不確定なもの」と言えるかも知れない。

天風先生はこう言っている、禅宗ではこう説いているという知識では分かったことにならない。三択のうちどれを信じるかは自由だけど、小学生レベルの選択と大学生レベルの選択では選択は同じでも意味が違う。
根拠無き信念は、根拠無き楽観主義となり敗北に繋がる。それは根拠ある悲観主義より根拠無き楽観主義の方がまだ良いのは事実だけど。根拠無き楽観主義では、偶然うまくいくというフロックが存在するから。





祭り

秋の祭りで御神輿を担いだ後は当然飲み会になる。小学校、中学校のミニ同窓会の形になるが全員男ばっかりだ。祭りに参加しない女の子(今はおばあちゃん?)も呼べと言いたいが、まあ、幹事もあれもこれも気を使わないといけないし、そういうことが得意な奴でもないし、そういうことは頼めないな。
分校の同窓会にもなるかも?分校といっても同級生は3人しかいない。小さい時は学校でも遊びでもいつも3人だった。3人が約20年ぶりに顔を合わせることになるな。
いろいろ座布団太鼓の由来を考えているのだけれど、どうも北前船の安全を祈願した祭りなんだろうと推測し始めた。日本海の荒波から無事に帰って来れたこと、次も無事帰って来れるように神様への奉納だったんだろうな。


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