男の生き方には基本的に二通りある。それは守りと攻め。すなわち昔からの形を守る生き方と、創造に生きる生き方と。文明には二通り必要なのですが、一人が同時に二つの道は選べない。
宗教は守りですね。高野山の坊主なんかは昔から何一つ変わらない形(かた)を守ることに命をかけているわけです。私は守りの人間にはなれないので創造性の中に生きている。東京で創造の世界で毎日格闘している。
今回も「おまえ、田舎に帰って来いよ」と二人の人に言われた。昨年秋にも友人が訪ねてきて説得されたが、「こっちでやるべきことが多いから俺は田舎には帰れない」と断ったが、「島の未来にはおまえの全体を見ることの出来る思考と創造性とカリスマ性が必要だ」とさらに言われたが、「無理だ」と答えた。
そんなこと考えたこと無かったが、島で生活していたり、引退して島に帰るとそういう立場に立たされるのは必然なんだろうなと想像できる。そんな生き方の選択もあったんだなと気がついた。でもそんな道は選べない。
16日夜のパーティの時、村の総代(村長さんみたいなもの)から、「おまえの家の離れを移住者のために貸してくれ。あの離れにはトイレも洗面所も風呂も独立して付いているから。誰もいない家より誰かが住んでいた方がいい。母屋は鍵をかけてそのままにしておけばいい。島への移住者の希望は多いのだけれど貸せる家が足らない」と言われた。
「俺は次男だから家をどうするかということに権限は何も無い」と答えた。
「兄貴に言うといてくれ」と言われた。
確かに離れは独立した若夫婦や住み込みの家族が住めるように元々作られている。かつての釜戸式の台所は今は倉庫になっているが。盆や正月に帰るとその離れに私や兄や叔父が寝ることになっている。私の村ではどこの家にもそういう離れの部屋が付いていた。今では壊してしまったところが多くなったが。
どこの国でも若夫婦向けの独立した空間と時間が必要だ。聞くところによると中国で毎朝公園で年寄りが気功をしているが、その理由はその間、若夫婦に年寄りに邪魔されない独立した時間を上げるためだと聞いた。健康のためというのは表の理由で、裏の理由は若夫婦に二人だけの時間を上げるためということですね。話がまたそれた。表の理屈だけからは本当のことは見えてこない。
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