「言葉は神、言葉は悪魔」だと思います。また人から発された言葉を神の言葉として受け取るか、悪魔の言葉として受け取るかは、聞き手の解釈ということもあります。
私は、「神は人の口を通して真実を語る」という言葉をいつも心に置いているので、人から何を言われても、自分では気づかないでいることに対しての反省の材料として誠実に聞いています。まあ、そんなことが出来るようになったのは10年前ぐらいからですね。
そして何とか人を救いたいと思って発する言葉と、人は救えないという考えで発する言葉は明らかに違って来るということが最近分かりました。
「人は自ら気づく以外何もない」ということを悟っている人の言葉の使い方を勉強しました。大人というのは、「人は自分で気付き自分で自分を救う以外に道は無い」という諦めの立場に立っているんですね。
人を救うことは出来ないという立場に立つと凄く楽になります。言葉もその時の楽しさを追求すれば良いのですから。「良いんだよ、自分の思うままで」で済みます。
そう考えてみると、中国の老荘思想は、「人は救えない」という前提の思想ですね。
う~ん、仏教も深いところではそれが原点ですね。
う~ん、天風教義もそういうことか?仏教も天風教義も、自分が自分を救う道を説いているだけということになります。それらは確かに人を救う道は説いていない。
あ~!私もやっとちょっと悟ったかな?
また人を救えなかったという自責の念からこれで私は解放されます。
人を救えないという哀しい立場に立つ大人の人間愛と、人を救いたいという立場に立つ子供心の人間愛から発する態度と言葉はそれぞれ違ってくるんですね。
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