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ここまでとは知らなかった!

ベトナム戦争時の韓国軍の振る舞いについて少しは知っていたけど、ここまでとは知らなかった。戦争の残虐・残酷な映像に耐えられない人は見ないように。

私はいつも言います。もし日本が朝鮮半島を併合しないで朝鮮半島がロシアの植民地になっていたら、「日本は助けてくれなかった」と日本に対して恨み辛みになっていただろうと。だから日本は何かをしても、しなくてもどっちに転んでも恨まれると。ロシアの植民地になっていたらロシアという虎の威を借りて、言いたい放題、やりたい放題だったかも知れませんね。
儒教の裏腹ですね。だから私は儒教すなわち論語に好意的でないのです。儒教は権威や身分制度の固定を意味しますね。汗を流して働く者を蔑んでいる。
だから韓国ではこつこつ汗を流して物を作る職人や農民を低く見ている。
日本では、職人や農民でも良い物を作る者は尊敬の対象になる。
日本では搾取されたことによる反乱というのはほとんどありません。
朝鮮半島史を見ていると反乱というのが結構ありますね。
いろいろ考えるに、歴史的にも日本は天国ですね。日本ではいくら内戦が起きても一定地域の農民や住民の大量虐殺という歴史は見当たりません。そういう骨も出てきません。島原の乱程度ですね。でも当時の政治的理由によるものでした。無理由ではない。キリスト教徒の乱だけでなく当地の税が高過ぎて農民の一揆でもあった訳で、乱の後で、適切な管理能力が無いということで当時の島原の藩主は責任を取らされている。その後、3年間か?一定期間無税になったんですよね、確か。
日本には所有・支配するという観念が無いのだと思います。大名も一定領域を管理しているのであって、自分の所有ということではありませんでした。だから転封というのがありました。間違った判断をしているお殿様を座敷牢に閉じこめることもしていました。you-tubeを見ていると江戸時代に、我が儘なお殿様が座敷牢に入れられたのは20件ぐらいあるそうです。幕府も天皇から免状を貰った位の役割であって所有権ではありませんでした。大名といえども個人所有で自分で遊ぶ大豪邸を建てた人はいません。金閣寺、銀閣寺?外国の個人の大豪邸に比べれば質素なものですね。お城は役所でもあったわけですから、今で言えば都庁舎に都知事が住んでいるようなもの。そんな国、他にあるのだろうか?日本人にとってそんなこと当たり前のことだから不思議に思わないけれど、外国の目から見ると日本は不思議の国ですよね。奴隷制度が無かった(ほぼ)、虐殺の歴史が無い、大名の個人所有権が無い。これだけで天国だと思いますね。侍による勝手な殺しも許されなかった。切り捨て御免という制度もあったけど、余程でないとそれは出来なかった。江戸時代は侍といえども刀を差して歩いても、一生それを抜くことの無かったのがほとんどだったと思いますね。戦国時代が終わると鉄砲の新開発も止めてしまった。刀は侍の命、魂と言いながら、明治に廃刀令が出るとほとんどの侍がパッと刀を差すのを止めた。商人の町・大阪では江戸時代、一生の間で一回も侍を見ることなく死んだ人も多いと言う。日本の士農工商という身分制度も抜け道はいろいろあったようです。吉原の遊女を嫁にした侍もままいる。明治でも芸者を妻にした政治家もいる。身分制度に抜け道があった国なんて他に知らない。時代劇を見ていても身分の一番低いはずの商人が侍に金を貸して大きな面をしていますよね。そんな国他にありません。他の国では身分の高い者が低い者から強奪してそれですべて終わりです。
インドではレイプ事件が問題になっていますが、裏の背景にカースト制度の文化から生まれていると思いますね。かつては身分の低い女をレイプしたり殺したりすることは何でもないことだったのだろうと推測しますね。今のインドの憲法にはカースト制度はありませんが。今のインターネットの時代、レイプや殺人がバレて、世界中にニュースとして拡がるようになったということですね。

参考:島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった(切腹という説もある)。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされるのは、この1件のみである。同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。
後に天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。
天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は検地をやり直し、石高の算定を半分の21,000石にするよう幕府に対して何度も訴えた。しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。そのため、重成は承応2年(1653年)に江戸の自邸で石高半減の願書を残して切腹し、幕府に抗議した。幕府はこの事態に驚愕して重成の死因を病死と発表し、養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。この事実はやがて天草の領民にも伝わり、領民は皆号泣したと伝えられている。現在も鈴木重成を奉った鈴木神社が存在し、天草の人々の信仰を集めている。重辰もまた石高半減を幕府に再三訴えたため、万治2年(1659年)に幕府はようやくこれを認めた。
[こんな国、きっと他にありません。上のyou-tubeの国とは大違いですね。]


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