今日、仕事で福島県の郡山に行ってきた。相変わらず時刻表を見ずに行ってもピタッピタッと決まる。大宮に着いて新幹線の改札を通って時刻表を見たら、郡山行きが4分後だった。帰りももちろんピタッと決まった。こういうことはいつもいつもピタッと決まるんだけどな~。帰りの新幹線の窓から少し雪のかぶった磐梯山が見えた。見えた瞬間、神の山だと感じた。考えてみるとモンゴロイドにとっては山に神を感じることがなぜか自然に遺伝子の中に組み込まれているのではないだろうか?
モンゴロイドと言ってもアジアはほぼモンゴロイドだ。インドネシアの山も、ヒマラヤの山も、チベットの山も神聖な不可侵の神の山が多い。基本的に山は不可侵なのです。しかしそれを神と感じないで征服する対象になっているのが白人ですね。なぜだろう?もちろんキリスト教では山などの自然に神を感じるようなシャーマニズムの否定だからではあるんですが・・・。それとも白人は本来、霊性から見たら野蛮人?
もちろん今は日本人も白人の影響を受け、山に神聖さを感じる感度が落ちている。
ヒマラヤに行っては山をゴミで汚してくる。最近はそうでもないかもしれないけれど、日本人のヒマラヤ登山グループの残してくるゴミが世界の登山家のひんしゅくを買っていた。富士山が世界遺産に登録されなかったのはゴミだらけだったからと聞いている。山を神と見ないからそういうことになる。
世界の名峰のどこの山を登った、あそこの山も登ったとテレビなどでは登山家をまるでヒーローのごとく取り扱うけれど、「あ~、この人、山を汚してきたんだ」という見方も必要ですね。
近隣諸国を戦争で勝って統合したら英雄として歴史では取り扱われているけれど、「あ~、この人、たくさん人を殺したんだ」というように英雄認識を変える必要があるかも?
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