家族の誰かを亡くした人に、「人は遅かれ早かれみんな死ぬ。」と私が言っても、「何言っているんだ!そんなの誰でも知っている!」と反発するだろう。
しかし、同じ言葉をお釈迦さんや天風先生が言えば、パッと気付いて悲しみを乗り越えることが出来るかも知れない。
まったく同じ言葉で、まったく同じ意味なのに何が違うのだろう?天風教義を説く時も同じだよね。同じ言葉なのにどういう人が説くかによって違ってくる。
言葉とは何なのだろう?それは私にはまだよく分からないけれど、真理は悟った人に会って、その人の口からの言葉を直接聴かないといけないと思うな。
言葉は本屋にもネットにも溢れているが、人間はまだ人から学ぶ存在なのかも知れない?天風会に入って5、6年は、いろんな人のセミナーに毎月のように行ったけど、それは良かったと思っている。「天風教義を学ぶだけで良い。すべての基本はその中に入っている。」と言う人もいるかも知れないけれど、他流試合であっても、やはり生きた悟った人に会わないといけないんだと思うな。私がいつも言っていることですが、今現在、悟って生きている人に会って話を聞いて、その人の言葉から天風先生の言葉の意味が分かるということはあるね。
言葉には知識の言葉と身に付く言葉という二種類あるということかな?知識としての言葉でも嫌いな人からの言葉は大抵は知識にもならないよね。
それと、あれだな~?理屈には権威が必要だな。権威のない人が理屈を言っても誰も聞かない。天風先生も最初は体験談と具体的な方法を述べていただけかもしれないな?社会的な権威が付いてきて徐々に理屈も述べるようになってきた?その検証は必要かな~?
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