以前、「地球一切を救うヴィジョン」という本を自分で本の紹介欄に紹介していながらやっと読み切りました。この本の中に「中村天風」という名前が二度出てきます。それも中村天風先生という表現で。「なんでこんなところに?」という感じですね。天風先生の悟りや教えはヨガを元にしていますが心は神道ですね。それをかつて務名先生に聞いたことがあります。答えは、「その通りです」でした。そういうふうに判断している先生方は天風会にどれくらいいるのでしょう?
天風先生の教えが如何にすばらしいかったとしても、どうして皇居にフリーパスで入れたのでしょうか?どうして皇族方が夏期修練会に庶民と一緒に参加出来たのでしょうか?天皇に対して偉い先生方によるご進講というのは今も昔も続いていますがその先生方で皇居にフリーパスというのは聞いたことがありません。なぜ天風先生だけが可能だったのでしょうか?そんな疑問を私はずーっと持っていました。立花家のお殿様の血統だから?もちろんそれも一つでしょうが・・・上記の本がその答えのヒントになるかも?まあ、突拍子もないことがたくさん書かれていますが。
同じ天風会に入っている天風会員でもそれぞれの人が持っている霊統というのはあるかもしれませんね~?霊統が違うと教義の理解の仕方や深さが違ってくるし、会員同士の人間関係も違ってくるかも?その違いは理解不能でどうしようもないかも知れないし、しかしながら違う霊統の人が同時に同じものを学んでいるということは本当に素晴らしいことで、それが天風狭義の一番意味のあることかも知れない。
まあ、私の言っていることを理解できる会員は少ないというのは、学びの深さの違いというだけでなくそういうこともあるのかも?何かを多く語らなくても「あっ、なるほど」と理解できるのは同じ霊統だからかも?まあ、この説は仮説ですけど。
先日ある人から、「村長さんは、釈迦やキリストのような人ですね」と言われましたが、否定表現を使うとその人の頭の中に否定的マイナスのエネルギーが生まれるから(脳の中の気の回転がマイナス方向に回転する)、まあ、ここは否定表現は使わない方が良いだろうと思い、「ひょっとしたらそれに近いかもよ~」とちゃかして答えましたが、まあそんなことも????およよよ。それにしても、ここで私が否定形の言葉を発すると相手の気の回転が逆転するとなぜ分かるのでしょう?不思議だ。
仮説の仮説ですけど、天風先生の気の流れを受けている人(直接会ったかどうかは関係が無い)は神道系に共鳴する要素があるような?仏教から学ぶものは多いけれど知識や参考として学ぶだけで。
天風会員で日本の仏教の気の流れを受けている人はとらえ方が狭義的になりやすいかも?もちろん本当の仏教の流れを持っていれば違いますよ。本物はみんな広いのです。何でも本物には違いは無いのですから。
ちなみに、おそらく霊統の違いというものは心がジャンプすると乗り換えることが出来ると思います。「違うから」ということで乗り換えようとしない人が多い。神道では神様違いという表現になる。逆に同じ霊統にいても違うと勘違いしている場合もあるし、ほんと、人間は面倒な生きものだね。
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