「我思う、故に我有り」という自己存在の証明論理があります。私は、この自己存在の証明ということに大学1年の時に取り組みました。この言葉にどうも納得がいかなくて。友人にも何人か聞いてみました。でも、どうも私の腹に落ちませんでした。
納得できないままそれからすでに何十年か経ちました。最近読んだ本の中に、
「我有り、故に我思う」
という言葉がありました。うん、こっちの方が納得ですね。
「我思う、故に我有り」は仮我の世界のみの論理なのです。「我有り故に我思う」の最初の我は実我なんです。そう、「自己に内在する言葉無き実在」なのです。この「言葉無き実在」が仮我に意識を送り、仮我が思考するのです。すなわち後の我は仮我なんです。言葉で思考するのは仮我なんです。「言葉無き実在」すなわち実我は、思考無き直感の世界なのです。あえて言えば真・善・美とか本心・良心の理由無き直感なのです。そう、最初に存在ありきなんです。それを英語でbeingと言います。存在には理由が無い。このbeingが「見えざる実在」と繋がっているのです。「見えざる実在」とは真我なんです。実我は、かなり高いレベルの安定打坐で心眼で見ることが出来ます。でも真我は心眼を通しても見ることが出来ません。この最新の気づきについては今日の勉強会で話すのを忘れていました。(注*ただしこの見えざる実在をbeingsと定義している先生もいますね。)
この宇宙には三大不思議があります。時間、空間、エネルギーですね。この三つの存在は考えても考えても不思議な存在なんです。真我はエネルギーに関係してきます。それも宇宙意識エネルギーですね。いやはや二十歳の時の問題が今、私の頭の中で整理され始めました。まあ、普通の人は時間・空間・エネルギーという言葉と概念を何も考えずに使っているけれど、本当の自分とは何かということを考えるときに避けては通れない問題なんです。
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