坂本龍馬の写真をヒントに手の組み方をいろいろやってみて無心になるツボを見つけた。しかしどうも安定打坐で無心になる感じと違う。思考停止にはなるが気が充実しないしそのままでは気が臍下丹田に落ちない。無心と思考停止とはどうも違うようだと気がついた。新しい手の組み方から得られる思考停止の状態から天風会で教えている印の形(双輪の印)に組み替えるとなかなか良い。臍下丹田に気が落ち着く。このツー・ステップ方式が良い。無心とは思考停止と共に気が全身に充実して、なおかつ重心が下半身にきちんと落ちている状態を言うのです。それにしても思考停止のツボがあるということは気が臍下丹田に落ちるツボもどこかにあるかも?
(無心というのは、思考が雲の流れのようにただ流れていてもそれはそれで構わないが思考停止の状態でないと360度の注意は払えない。武士は常に360度の注意を払っていないとどこから切られるか分からない。まあ我々凡人の打坐においては頭の中に何かイメージが浮かんでくることも多々あるが、それをそのまま認めてなおかつそれにとらわれないでそれをただ流すのも無心の内です。浮かんでくるイメージや思考にとらわれないということが大事なのです。こだわらない、とらわれない、執着しないですね。日常の諸々にもこれが出来ればそれで良いのだけれど、いくら長年天風会にいても、誰がどうしたこうしたと思考や感情がそれに拘り、囚われ、執着してしまうという生活習慣思考から離れられない人が多い。)
ただ考えるに、無心というものはツボなんかで簡単に身につけてはいけないものかも知れません。無心から元に戻ったとき思考も元のぐじゃぐじゃのマイナス思考に戻っては何もならないからです。無心から甦ったとき絶対積極心とか霊性心にならないといけないのですから。簡単にできるというのは要注意ですね。
(これがその写真。分かりますかね?全身の力の抜け具合、視線、手の組み方、臍下丹田に籠もっている気。それらがすべて、剣禅一致(悟り)の境地がどれほど出来ているかを証明しているのです。少なくとも肩の力が如何にストーンと抜けているぐらいは分かってください。肩の力がこれほど抜けるというのは現代人ではなかなか出来ない。普通の人が見ると、龍馬はただボーッと力なく座っているだけに見えるかも?)
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