今回の帰省で田舎の分厚い歴史編纂書に目を通した。その中に村の歴史も少し書かれていた。50軒の家しかない村の主産業は廻船業(北前船)で、私の祖先もそうでしたが、江戸中期に大型船が17艘もあったとあった。だから我が村に蔵の無い家は無い。昔は細い山道を通っての物の移動よりも船による運搬の方が遙かに便利だった。山道による運搬は人が背負うことの出来る量だけだった。
しかし明治になって牛車や車社会が徐々に拡がりつつある時代が来始めて、道路造りに村の人手と村から費用を拠出して村は貧乏になったとあった。
今は道路は国や県が造るけれど当時は村が自ら造ったのだろう。私の4,5歳の頃だったかな?さらに道幅を拡げるために私の母も含めて多くの村人が道路造りをしていた記憶がある。女学校や洋裁学校出の母が土方をしていた。もうその頃は県から日当が出ていた時代だったと思うが。それで岬の分校(二十四の瞳の映画ロケ地)までバスで行けるようになった。戦前の道造りにおいては祖母がダイナマイトの発破作業をしていたと聞いている。道造り、家造りは村総出だった。江戸時代は各藩が自主自立自治だったが、藩の中でまた各村がそうだったと考えられるな。規定の年貢米を納めれば自治はかなり自由だった?私の村では無いけれど島のある主要な村には幕末まで隠れキリシタンがいたそうだが、きつい取り締まりは無かったようだ。悪さをしない限り、周りは分かっていても知らない振りをして黙認していたらしい。布教初期において小西行長が島民を強制的にキリスト教徒にしたらしい。それも始めて知ったな。小豆島のキリシタンはみんな島原に移住したことは知っていたが、島に残っていたキリシタンもいたんだな。
国造りは、まずは畑作り、山造り、道造りなんだな。今、日本の田舎の山や畑は手入れが出来ずにいる。田舎の畑も草だらけ雑木だらけになって無管理の山になりつつある。
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