学びは、少しの理屈→体感→会得→納得→理屈(理論)
の流れにならないといけないんだな。会得と納得の順番が逆の場合もあるが。
最初の少しの理屈で分かった気になるのが凡人だな。
十牛図なんか説明を最初に読んだ時は、「なるほどな~!」と分かった気になるが自分の言葉では説明できない。
勉強家は、「本にこう書いていた」と知識(単なる文字の記憶)を話せるだけだな。自分の言葉で、易しくたとえ話が出来ないと分かったことにならない。
「究極の旅 OSHO禅の十牛図を語る」OSHO著を買った。
大した内容です。ほんの一部抜粋します。
四。
「もし自分の馬鹿さ加減を理解できたら
それはたいした啓示だ
そのとおり
なぜならその点から
旅が始まるのだからー」
十。
自分の寿命を延ばす魔術など用いない。
いまや、私の目の前で
樹々は息を吹き返す
酒瓶をさげて市場に出かけ、杖を持って家に戻る。私が酒屋や市場を訪れると、目をとめる誰もが悟ってしまう」
とある。花咲じいさんですね。「作為無くして自然を行じる」というのはこの十番目の事を言うんですよね。
今夜、買ったばかりのワイヤレス・イヤホンで天風先生の真理瞑想を聴いていた。その状態で紅茶を入れようとしたら、大学に入って下宿生活をする時に買ってからずーっと使っているコーヒーカップを落として割った。拾い上げてゴミ箱に捨てたがその時、左手の人差し指の付け根を15ミリほど切ったが気がつかなかった。ふっと見たら血が一杯出始めてきた。痛みは何も感じなかった。
当然、気で出血を止めるべく、「エイッ!」と右手で傷口に送った。止まるはずだった?が止まらない。まま、ティッシュで血を拭きながら気を送った。5分ほどで止まった。気付いたのは、出血はバイ菌を洗い出すために必要だったんですね。それが必要な間は止まらない。傷口とその周りは送られた気を感じやすい。ということを理解した。
が、考えると自分の気の力で血を止めようとしたのは、まだまだかも?
「出血?あっ、出ているね。そのうち止まる。」と忘れて放っておくのが良かったのかも知れないと反省した。まあ、それと同時に二つのことをしてはいけないということですね。自分の出血を止めるのは人のを止めるのより難しい。
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