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つまみ食い

教えはつまみ食いでは身につかないと思うな~。
食べ物の栄養もつまみ食いではあまり身につかないのではないだろうか?
つまみ食いで教えを学び、身に付けたいと多くの人は思っている。
私もかつてはそうだったかも知れない。

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修行

修行というのは簡単に言うと、
「気にしない力を養うこと」ではないだろうか?
気にするからそのことをゴチャゴチャ考えるんだよね。
何も気にしなければ、何も考えないということだな。
死を気にしなければ、死を恐れることも無い。
難しい言葉で言うと泰然自若だな。
易しい言葉で言うと、何事も気にしない、ことだな。
ちょっと誰かに何かを言われたらプライドを傷つけられたと頭に来る。それは気にしているからだよね、他人から見られる自分を、人を、言葉を。
気にしなければ何を言われても馬耳東風。「あの人がどうしたこうした、」と言うのは、その人を気にしているからだよね。
気にしない、ということは”忘れる”ということに繋がるね。
「病は忘れたら治る」とか、「許すより忘れろ!」とかにね。

宗教とは?

「天風会は宗教ではない」と言われます。「天風教義は宗教」だと言う人もいます。「天風教義は宗教的要素をすべて持っている」と表現する人もいます。
「宗教とは何か?」という定義をしないで宗教か、宗教でないか、を議論しても意味が無い。少なくても宗教団体では無いことは当然の理屈です。何故なら財団法人として登録しているので、宗教法人ではないからですね。そういう狭義の定義においては天風会および天風教義は当然のごとく宗教では無い。
最近の私の悟りとして、「自由が宗教」というのがあります。
「はあ~?何、それ?」だよね。
世間の宗教団体では教義があり、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという戒律があります。それぞれの教えの戒律に従うのが信者ですよね。
(実際においてそれぞれの宗教の戒律に従っている教徒は少ないけどね。)
「戒律に従って理屈による自己規制って、本当の宗教かな~?」という疑問が私にはありますね。
心の中で何故か無意味に突然に晴れ晴れとして自由を感じる時が人間にはまれに持つことがあります。その心の自由は奴隷も持つことが有りうりますね。
肉体は不自由だけど心は自由という状態。
その心の状態が本当の宗教じゃなかろうか?というのが私の仮説。
ただその自由を会得するには不自由を経験しないといけない。
不自由の中に本当の自由があると言われる所以かもね。
自由を会得するために人工的に作った不自由な環境が宗教団体かもね?
そういう意味では宗教団体は宗教ではない。
ほとんどの人は心が自由じゃないよね。いろんなことに囚われているから。
教えに囚われているのも心の不自由だよね。
学んだことを忘れて始めて学びは身につく。
今日の話は難しかったかもね?こんな考えは宗教家からは全否定されるだろうな?まあ、私の仮説だから。
4年半前に銅鏡、銅鐸は測量器具だったとブログに書きましたが、昨年からそれを言っている論文が出始めていますね。時代が私に近づいて来た?
「本当の宗教とは心の自由を会得することである。」という定義を10年後ぐらいに誰か言い始めるかもね?

運命と意思

人生は意志と運命の絡み合い。
運命だけでもないし、意志だけでもない。
人との出会いは運命の要素が強いな。
仕事は意志の要素が強いかもな?
それぞれゼロ・百ではないと思うけど。
意志と運命が絡み合う螺旋かもな~?うん?DNAと相似形?
生まれながら持っている運命もまたカルマと魂のプログラムが絡み合って作られている?

文明と文化

文明は誰もがそれを享受する。
文化は分かる人にしか分からない。
学校教育はそれなりに文明だな。
大きな宗教は文明の内かもな?
天風教義とか禅とかヨーガの教えは文化だな。



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