講師になるには、一定の枠の中での理解と解釈と説明能力が求められる。
すなわち講師は心の自由を失うことになる。教義の何か会得すると、それを自分の言葉で説明できるようになる。しかしそれは往々にして講師の規定の枠を越えることになる。それはまた往々講師を認定する人の理解能力の外になる。
教義の会得は、心の自由の中でしか存在しない。どれだけ本を読み込んで、説明をどれだけ覚えているかではない。「あっ!これっ!?」なんですよね。
それは皮膚感覚であり、言葉にならない心の中の感得なんですよね。その表現はひとりひとり言葉が違う。講師によっては型にはめられて鬱屈する人もいるかも知れない。講師に解釈と表現の自由さが無いと天風会は発展しないかも?
会社が人を採用する時に、面接する面接官の責任者(主に人事課長)以上の人間を採用することが出来ないと言われています。人は自分より優秀な人間を観ることが出来ないらしい。だから部外者を面接官の中に入れる企業もある。
心の自由を維持するために組織の中に入らないのもひとつの選択ですね。
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