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こんなことも

日本と戦争して得した国は無いと前に書きましたが、日本と戦争したことが原因で滅び始めたのは、元と清だけでなく、明もそうだったんですね。
秀吉の朝鮮出兵に対して朝鮮が明に救いを求めて、明は日本と朝鮮で戦った。
明の将軍は日本に勝てる見込みがないと皇帝に報告したが、秀吉が死んで日本は撤退した。明は日本との戦いに富を使い果たして衰退していったとある。
で、明が清に攻められた時に、明は日本の強さを身に沁みて知っているので日本に救援を求めたと。ちなみに秀吉の朝鮮出兵の際に、数千人の日本兵が朝鮮側に付いたとあります。朝鮮の人民があまりにも貧しいので道義心が起きたのだろう。朝鮮側に寝返った日本兵が朝鮮軍や明軍を指導したとあります。
もし秀吉が死ななかったら、日本兵同士の戦いになっていたかも知れないと。
朝鮮の李朝のある偉い宰相が亡くなる時に、「日本とは争ってはいけない。和していくように」というのが遺言だったとか。
秀吉の朝鮮出兵は朝鮮が目的でなくて明征伐が目的だったんですよね。朝鮮は通り道でしかなかった。ただ、朝鮮は明の属国だったので、「はい、そうですか」と秀吉軍を通すわけにはいかなかった。また食料の現地調達を旨としていたので非常に貧しい朝鮮人からなけなしの食料を奪うことになった。
で、朝鮮は秀吉軍と戦うしかなかった。
秀吉はヨーロッパの植民地支配主義に対抗するために、今で言うところの日中韓連合を作ろうとしていた。でも明も朝鮮も応じなかったので明に向かって朝鮮に上陸したということなんですが、それは織田信長の目的だったんですよね。織田信長にとって日本は目ではなかった。アジアの大王を目指していたのです。日本は明智光秀に任せようとしていた。秀吉は信長の意志を受け継いだ。
19世紀終わりにヨーロッパの植民地にならないために、日中韓という東アジアを近代化しなければならないと中韓に申し出ても相手にされなかった。それでやむなく朝鮮半島と中国大陸を強制的に近代化しようと侵攻した。まったく同じことが信長・秀吉の時代でもあったということですね。
大東亜戦争時においても日本軍は中国大陸で食料の現地調達を旨としていたので中国人から恨まれることになった。現地調達と言ってもお金で買うケースは少なかった。すなわち強奪、略奪だったわけで。
元寇の時に対馬、壱岐などの島は元・朝鮮連合軍によって、特に朝鮮軍によって略奪、強奪、殺戮、強姦の限りを尽くされた。その結果、それらの島々は非常に貧しい島になった。その結果、食料を得るために和冦が生まれた。和冦は朝鮮半島と中国沿岸を荒らしまくった。それにまねてまた朝鮮人が和冦を名乗って日本の和冦よりも残虐に同じことをした。日本人のふりをして悪いことをするのはその時からの伝統なのかも?
どちらにしても自分がしたことは自分に振り返ってくるということですね。
過去も現在も、説明不足の日本、人の話しを聞かない朝鮮、夜郎自大の中国というのは変わっていないということですね。
とにかく何にせよ、人や国をいじめたら、しっぺ返しが時代を越えてやって来るということですね。日本が時代のしっぺ返しを受けているのは間違いがない。
韓国(朝鮮)の歴史を読んでいたら、「仕方ないな~」という面はありますね。
女房子供を裏切って若いねーちゃんと逃避行をした男で、まともに死んだのは私の聞く限りでは一人もいない。逆のケースはまだ実例を聞いていないな。これから20年ぐらいで答えが出てくるのではないでしょうか?しっぺ返しが戻ってくるまで30年かかることもあるでしょうね。
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