本には、「無心」、「無私」、「(霊性)直感」、「今の瞬間を生きる」、「本心煥発」、「神人冥合」とかいろいろあります。修行を通してこれらを段階的に身につけることが悟りというようなことを大抵の瞑想の本には書いています。それぞれをそれぞれの方法で身につけようと修行プログラムがあります。
それらのプログラムは正しいけれど、これらは本来一つの状態だと言うことが分かっていない人が多いかも?
一つの状態、それが安定(あんじょう)なんですよね。安定とは座ることではない。
無私でなれけば無心になれない。無心でなければ今に生きられない。無心でなければ霊性直感は得られない。無心で無ければ本心煥発に進めない。本心煥発でなければ神人冥合にはなり得ない。
修行ではここに時間があるけれど本質的にはこれらすべてが同時で一つの状態なのです。
三次元には時計時間があるけれど、心の世界である四次元は時間が無いと思えるほど時間は瞬間であり、また同時に遙かに長いようにも見える。五次元の霊的世界は人間の目から見れば過去と現在と未来が同時に存在している時間に見える、のかも?
安定とかクンバハカというのは、生死の境が無くなることでもある。霊的世界は過去・現在・未来が同時に存在しているということは、生死の世界が無いということなんです。クンバハカは聖なる態勢であり、霊的状態と言われています。だからそれらは生死を超越した状態なのです。ちなみに安定とクンバハカもまた別のものではないですね。別のものとして修行しているけれど、一つの態勢を分解しているだけです。
安定打坐とか瞑想とか坐禅というのは、緩やかな臨死体験でもあるのです。死の予行演習でもあるのです。
坐ると言うことは、今ここで死ぬと言うことなのです。そして坐ることを終了する時、再生する、生まれ変わるのです。
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