蜘蛛の糸のその後の創作ストーリーの原稿をメールで貰いました。転写の許可を貰いましたのでここに紹介します。なかなか味のあるお話しです。
【 掌編小説 蜘蛛の糸その後 島根一郎
芥川龍之介作「蜘蛛の糸」には後日談が伝わっています。出典は不明ですが、もしかすると天風先生が語られた話が今も天風会で語り継がれているのでしょうか。
カンダタが蜘蛛の糸が切れて再び地獄へ落ちてから三百年ほどたったある日の朝のことでございます。今朝もお釈迦様は蓮池のふちをお歩きになっていらっしゃいました。
ふと蓮池のほとりに佇まれて蓮の間から底の方を覗き込まれたのです。
すると血の池地獄で蠢いているカンダタの姿があったのです。でも、三百年前のカンダタと様子が違うことにお釈迦様は気付かれました。心なしか笑みを浮かべ血の池地獄で這いずり回っている亡者に時には手を差し伸べているのです。
不思議に思われたお釈迦様はカンダタに尋ねてみようと思われました。そして、カンダタに向かって銀色に光る蜘蛛の糸をスルスルと投げ下ろされたのでございます。カンダタは蜘蛛の糸を手繰り寄せたのですが……
「いや!待てよ!」
カンダタには閃くものがありました。
「この蜘蛛の糸はオレのものだ!下りろ!下りろ!」と叫んだ途端に今までなんでもなかった蜘蛛の糸が手元からプッツリと切れて
地獄から脱出する千載一遇のチャンスを逃してしまったのです。カンダタは来る日も来る日も悔やんでばかりいました。そんな日がしばらく続いたある日のことです。地獄は辛く苦しく悲しいことばかりです。辛いとか、苦しいとか悲しいと思っても事態は一向に改善しません。元は人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒のカンダタのこと、このぐらいの責め苦は仕方がないこと、と達観すると地獄の責め苦もそれほど辛く感じなくなりました。そして、時には血の池地獄で溺れそうになった人に手を差し延べたり、ニッコリと笑みを浮かべることさえあるのです。
蜘蛛の糸が手元でプッツリ切れたことなど忘れかけていました。そんな時でした、お釈迦様がカンダタの前に蜘蛛の糸を垂らされたのは・・・・・・。カンダタは一人で蜘蛛の糸を手繰ろうとはしません。しばらく思案していましたが、突然大きな声で、
「オイ、お前たち!一人ずつこの蜘蛛の糸を手繰って極楽へ行け!」と叫びました。
一人残らず極楽へ送り届けたら、
「最後にオレが行く!」
そして百人二百人五百人と一人ずつ極楽へ登らせたのですが何時まで経っても亡者の減る気配が全くありません。次から次へと人は地獄へ落ちてくるのです。
何時までこんなことが続くのやら、時には不安に駆られることもありました。
「すまねえな、あとからきたのに、ありがとう」とか、
「地獄に仏とはお前のことだ、ありがとう!」と口々にお礼の言葉を云われます。
カンダタは気を取り直して一人一人に
「気をつけて行けよ!」
「慌てるんじゃねえぞ!」
「大丈夫だ!オレが見張っているから!」と声をかけます。
やがて、
不思議なことにカンダタは何ともいえぬ喜びが心の底からふつふつと湧きあがってくるのです。蜘蛛の糸が切れぬようひたすら心を砕き地獄へ落ちた亡者をひとり、またひとり、と極楽へと送りつづけているのです。数百年経った今もカンダタは目を輝かせてこの営みを続けているのです。
このようすをご覧になったお釈迦様はにっこり微笑まれて蓮池を後にされました。
(おわり) 12・2・3 】
私はこういうの好きですね。私は人を引き上げるのをいつも失敗ばかりしている。
でも時々は少しは成功しているかな?でもまあ、特定の個人Aは別にして、人間一人一人を助けることは私の人生のテーマではないから別にいいけど。目の前に現れた人間をポイッと捨てられないだけで。でもさすがに、分からない人間はもう切り捨てないといけない時が来てしまったな。分かる人間だけを持ち上げるしかない。分からない人間は、分かっていないことが分かっていない。分かる人間は、分かっていないことが分かっている。分からない人間は知識と好き嫌いで判断する。分かっている人間は皮膚のエネルギー感覚で理解する。 PR