10年前ぐらいまではチベット仏教というのは、「邪気か悪魔に支配された仏教」というように考えていました。ここ数年、私の心臓を射抜いた本はチベット仏教の本でした。そしてダライ・ラマを人間として尊敬するようになりましたね。私は最初に尊敬したのは母方の祖父です。そして昭和天皇、そしてベトナムのホー・チミン、そして最近ダライ・ラマですね。天風先生は、凄いなぁ~、なるほどなぁ~とは思うけれど尊敬というのとは違うんですよね、私の心の中では。現在のモンゴル人の心がラマ教(チベット仏教)からも離れ、チンギス・ハーン以前の個人欲の混沌に戻っているのが残念ですね。社会主義が崩壊した後は中国も含めてどこの国も心の柱が無くなって金銭欲と性欲だけの集団になっているのが残念です。それにしてもダライ・ラマは人間として頭が下がります。困ったなぁ~、私は心の先祖返りをし始めているのでしょうか?チベットやモンゴルで坊主だったことがあるみたいで・・・。まさかチベット仏教に興味を持つとは思わなかった。日本の仏教は仏教を分化して単純化しているんだよね。そしてそれはそれで形式美として洗練された形になっているとも思う。仏教が日本流の形式美として進化したとも言えるし、本来の仏教から外れているという見方も出来る。国や時代によって何かの見た目が変化するのは必然だが本質を維持しなくてはならない。仏教の本質はダライ・ラマにあるのかも知れない。学びとしては上座仏教もひとつの大事なものだと思うが庶民には難しいかも知れない。仏教の難しさと単純さをダライ・ラマは両方とも持っているように思われる。
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