私はハイテクの光を仕事としているが日本の光技術の進歩に少しは貢献してきたし、今もしていると思っている。しかし技術の進歩には貢献しても世界平和とか人類の幸せに貢献したとは思わない。何か人類へのささやかな貢献を私の技術で出来ないだろうかといつも考えている。もちろんそのためには発想の転換が必要だ。今の頭の使い方や今の技術の延長線上にはそれは無い。光技術において宮崎駿のアニメのような発想の新規性と柔軟さを生み出したいと思うけれど私の頭は知らず知らずのうちに固くなっている。従来の思考方法による知恵と工夫の継続はしているが、仕事はそれで良いかも知れないが私の満足はそこには無い。私の頭を一度木っ端微塵にしなくては発想の転換は生まれない。
歴史解釈も21世紀になって大きく変わり始めている。まずチンギスハーンの歴史解釈は大きく変わった(まだそれは学校や大衆の理解までにはいっていないが)。坂本龍馬を含めて明治維新に対する分析も新しい波が生まれ始めている。ある意味で司馬遼太郎は明治維新前後から日露戦争までの歴史を日本国民に司馬遼太郎史観で固定してしまったのかも知れない。それは彼が得られた当時の資料からは仕方のないものだったのだけれど。司馬遼太郎史観も素晴らしいし面白いけれど、平行して別の史観も学ぶべき時が来ていると思う。
先日、喫茶店で英語の勉強をしていたら傍のテーブルに座っていた老紳士二人の会話が聞こえてきた。二人は台湾系の人か韓国系の人かは分からなかったが、日本人として自然な日本語と共に台湾語か韓国語をチャンポンに話していた。日本をとても肯定しているような話しの内容ではあったが最後に「最近のNHKの大河ドラマを初めとして歴史ドラマが増えているけれど、内容は日本が当時の世界状況の中の犠牲者というスタンスを取っている。NHKがどのように歴史を捉えているかはどの役にどういう俳優を持ってきているかで分かる。伊藤博文は・・云々・・。日本の犠牲者となった国の立場での見方が無い。これから我々はそういうことを言っていかないといけない。・・云々・・」と言っていた。「なるほどなぁ~。正しいとか間違いでなくそういう見方もあるんだな~」と思った。日韓併合をしないで朝鮮半島がロシアの領域になっていたら朝鮮半島の人々はどうなっていたかという視点も考えないといけないと私は思うのだけれど、彼らもまた日本の犠牲者になった悲劇の視点だけで見ている気もしないわけではないが・・・・。ただその時その人たちの話をたまたま隣にいて聞けてとても良かったとそのチャンスに私は感謝している。
私が言いたいのは、私の仕事のみならず歴史も世界観も宇宙観も複数の視点で見ないといけないということですね。ただ科学について言えば、新しい科学理論が世間の常識になるのには少なくとも二百年かかる。歴史解釈も同じで二百年かかるのかも知れない。人間も一つのことを学び取るのに三回の輪廻を繰り返し二百年かかる。何でも本当のことを知るのに二百年かかるのかも知れない。私はNHKの大河ドラマは見ていないけれどそれは司馬遼太郎史観のリピートだとしても、興味ある人はそこからそうではない新しい歴史研究による歴史解釈本も読むきっかけになるのだろう。私はそれが新しい時代の種になると期待している。
PR