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真理

インターネットの中にこんな文がありました。”ふむふむ”ですね。

「大体の若者は"知識"と"知性"が同一だという思い込みがある。
極端な知識の豊富さは合理性を生み、浅い知性しか働かせない。」

「”運の良さ”を上回る能力は無い」

「人は、「すごい」と褒められるより、「ありがとう」という感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知る。それが自分自身の価値へと繋がる。他者からの承認ではなく、貢献感こそが、人を強くし、人に勇気を与える。」

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信念

信念は知識や理性的思考からは生まれない。
知識(言葉)によってなされる思考は理解するという入り口で必要だが、信念は感じるところから生まれる。臍下丹田で感じる、または心眼で臍下丹田に信念が元々くっついていることが見えることによって信念が生まれる。
思考は言葉によって伝えられるが、感じることは人に伝えられない。
神道は感じることが主体なので教義が存在しない。

依存と自立

何事も、自分で気付いて、自分で決めて、自分で動く、ということが出来るのが今の日本ですね。今、日本に生まれて生きているということはそういうことが自分で出来るところまで進化した魂が日本に生まれているということですね。
せっかくそういう日本に生まれて依存症になったり、人に誘われないと動けない人も多い。せっかく日本に生まれて勿体ないですね。
特に天風会は自分で決めて自分一人で入って来る人がほとんどなので立派だと思いますね。宗教は自分から入る人もいるけれど、人に誘われて入るのが多いですよね。心の依存体質がまだ抜けていない段階の人ですね。
天風会は辞める時も引き留めはありませんし、何も言われません。
宗教の場合は、辞めたら地獄に墜ちるとかどうのこうのと脅迫されることがままありますね。場合によれば殺されることもある。まあ、本当の宗教はそういうものではないと思いますが。信仰は天風会のように個人の自由意志に任せるべきですよね。そういう意味では天風会、天風教義は本来の宗教ですね。

時間の流れ

時間は過去から現在へ、現在から未来へ流れていると誰もが思っています。
時間は未来から流れていると言う人もいます。それも一理あります。
私が思うに時間は、過去からの流れと未来からの流れがぶつかっている所が、”今”だと思いますね。だから過去や未来が見える人がいる。
その未来からの時間(波)の生まれている場所は点ではなく線ですね。点発信ではなく線発信。だからぶつかっている今が移動していってたどり着く場所はその線の中の一点なのですが、その場所は今は決まっていない。幅があるということです。その幅は人によって違う。狭い人もいれば広い人もいる。未来においてヤクザの親分になるか救世主になるかの幅を持っている人もいれば、公務員になるかサラリーマンになるかの幅しか無い人もいます。それは過去から背負っているカルマのせいでもあるし、背負っている使命の違いによるのもある。それは生まれながらのものですね。
今を正しく生きなければ、段々とたどり着く未来はその幅の端っこになって行くということですね。
ちなみに過去も点ではなく線だと思います。過去に対する認識の違いによって過去は変わる。それを変えるのが観念要素の更改ですね。分かるかな~?
過去が変われば未来が変わる。なぜなら今のベクトルが変わるからね。
「何でも感謝に振り替えろ!」というのはそういうことですね。
殺人や裏切りは未来三生のたどり着く方向を決めることになるな。だから今、裏で賄賂を貰いながら国を外国に売っている人達、「バレないから大丈夫!」と言って不倫している人達の未来は可哀想だな。その結果は因果律だから誰も助けようが無い。時間の流れは無数の因果律の糸の繋がりでもあるな。
真理はどの次元で見るかで見た目の法則が違ってくるので、過去・現在・未来が同時に存在していて時間というのは存在しないという見方の出来る次元もあります。まあ、こういうのは普通の頭では付いていけないな。
基本的には、「お天道様が見ている。ご先祖様が見ている。」だけで庶民は良いんだよね。それで人生、合格。それ以外、何も無し!

真理の表現

箱の中に紙をいっぱい重ねることが出来るように、2次元は3次元の中に無数に積み重ねることが出来ます。同じように4次元の中に3次元を無数に重ねることが出来ます。
言葉無き4次元の真理は3次元で無数の表現によって表されます。
だからどの宗教が正しくてどれが間違いだということはありません。
この理屈が正しくて他は間違いだと言うこともありません。
ひとつの真理の表現が違うだけです。その言葉や行動が正しいかどうかは、真理である深い慈悲があるかどうかです。
真理(そのひとつが例えば慈悲とか愛)は時には様々な言葉で表現され、時にはいろんな行動で表現され、時には仏像などの形で表現されます。
日本では、富士山の頂上に登るのに上る道はいくつもある。どの道を選んでも頂上にたどり着けると言います。しかし、キリスト教やイスラム教ではどうなんでしょうか?それぞれの宗派の覚者同士はそう言っているのかも知れませんが、教団としてはそんなこと言っていないと思いますね。最後の正義を自分のところに導こうとして権力争いや喧嘩をしたり戦争をします。それは真理への登り口から逸脱していると思いますね。



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