「作為無くして自然を行ずる」という言葉がありますが、どうもその意味は我々凡人が考える内容ではなさそうですね。「・・を修行することは、すなわち最高の無為(何もしない)の神通力を持つことです。自然に出て、身・口・意ともまったく使いません。しかし人がそこに行くとすぐにとても楽しくなったり、病が消えたり、災難が去ったりしますが、それを故意にしているわけではないのです。私は何もしません。これは完全に「為無為」です。するのですが、していないのです。」とある本にあります。「自然を行ずる」というのは常に絶対積極(ぜったい・せきぎょく)を生きることを意味すると理解すればまずまずですがそれでもその理解レベルはとても低いということですね。相対積極に執着して絶対積極も理解していない人が多いけど。悟った人の残した言葉は普通の人がいくら繰り返し読んで考えても理解はほど遠いということですね。「読書百遍、意自ずと通ず」というのは悟りの言葉に関しては当てはまらないですね。なぜならそういう概念が元々無いから。30センチの物差しをいくら繰り返しても100メートルは理解できないというのと同じです。昔の諺では「群盲像をなでる」ですね。自分がなでたところしか認識できない。ちなみに今はこの諺は人権問題になるので使えないと思います。まあ凡人はみんな盲目なんです。それを無明と言う。
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