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無為自然

「作為無くして自然を行ずる」という言葉がありますが、どうもその意味は我々凡人が考える内容ではなさそうですね。「・・を修行することは、すなわち最高の無為(何もしない)の神通力を持つことです。自然に出て、身・口・意ともまったく使いません。しかし人がそこに行くとすぐにとても楽しくなったり、病が消えたり、災難が去ったりしますが、それを故意にしているわけではないのです。私は何もしません。これは完全に「為無為」です。するのですが、していないのです。」とある本にあります。「自然を行ずる」というのは常に絶対積極(ぜったい・せきぎょく)を生きることを意味すると理解すればまずまずですがそれでもその理解レベルはとても低いということですね。相対積極に執着して絶対積極も理解していない人が多いけど。悟った人の残した言葉は普通の人がいくら繰り返し読んで考えても理解はほど遠いということですね。「読書百遍、意自ずと通ず」というのは悟りの言葉に関しては当てはまらないですね。なぜならそういう概念が元々無いから。30センチの物差しをいくら繰り返しても100メートルは理解できないというのと同じです。昔の諺では「群盲像をなでる」ですね。自分がなでたところしか認識できない。ちなみに今はこの諺は人権問題になるので使えないと思います。まあ凡人はみんな盲目なんです。それを無明と言う。
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物差し

人はそれぞれ自分の経験や教えられた知識により自分の価値判断(物差し)を持っています。30センチの物差しを持っている人は1メートルを計れません。1メートルの物差しを持っている人は100メートルを計ることは出来ません。30センチを繰り返して1メートルを計れるではないかと言うかも知れませんが、30センチの人は1メートルという概念を持っていないので30センチを繰り返してどこを計っても30センチです。30センチ、30センチ、30センチと30センチがたくさんありますというだけになる。自分の物差し(価値判断)で人を見ない、ものごとを判断しないということが空なんです。悟りなんです。自分の物差しで判断しないということは物差しが無限大だということなんです。悟った人は心が無限大なので、自分の物差しで人を見ようとする人には理解できないことなんです。悟りを言葉で表現できないと言うことはそういうことでもあるんです。言葉は意味が限定されるから、それは有限の物差しだから。

死には、1.卒業、2.自主退学、3.強制退学、4.犠牲(家族とか国を守るための死) があります。基本的にこの四つうちのどれかですね。

宿命

人はそれぞれ役割を背負って生まれてくる。そしてその役割を果たすために必要な能力はすべて持って生まれてくる。そしてそれ以上の能力は持っていない。しかしその能力を使うかどうかはその人の人生の選択による。残念ながら自分の役割に気付かずにその能力を使わずに人生を終える人も多い。
人は前世からのカルマを背負って生まれてくる。そしてその生まれた家のカルマも背負う。私は10代の頃にそれに気付かされた。自分が死ぬときはそれらすべてのカルマを抱きしめてすべて持って行こうという覚悟を持った。
家族の内の誰かが早く亡くなるときは、その人がその家族の気付かない悪いカルマをみんな持って死んでいくんです(もちろん本人の心や意識の中にはそんな考えは無いけれど魂が知っている)。大抵はそういう覚悟で黙って死んでいくのです。もちろん魂は永遠ですから魂は隣の部屋にいるようなものです。まあ今までの部屋を一人で掃除して隣の部屋に入るという感じでしょうか?それにしても残された家族がそんなこと何も気付かずにまた部屋を汚してしまって元の木阿弥ということも多い。

最も遠い他人

「最も遠い他人は自分」とどこかに書いていた。
「なるほどなぁ~」と思った。光が地球に沿って曲がるとして、自分を見るには地球をきっちり一周しなくてはならない。それも見えるのは自分の後ろ姿のみ。自分を3次元で見る、自分を立体的に分かるということは一番難しいことなのだな。


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