最近、誦句集を読んでいて、その内容の受け取り方が以前と違うんですよね~。言葉で表現できないのですが、あえて言えば、理屈の世界からイメージの世界になったということでしょうか?
「なるほど、そういうことか?」、「そうだ、そうだ!」の理屈の感覚、頭の感覚から、無言の感覚ということでしょうか?脳味噌が捉えるというより細胞がそこに入っていくという感覚でしょうか?
キリストは奇跡をいろいろ起こしています。私の知る限りでは釈迦は奇跡を起こしていません。おそらく釈迦は、あれだけ瞑想して悟れば難病の人を治すとか簡単に出来たはずなんですよね。でも能力については何も語っていません。
能力に拘れば行者になってしまう。行者は悟れないという話しがあります。
すべては縁起によって起こるので、人それぞれに起きる運命は意味があるので、釈迦は余計な手出しはしなかったということなのかも知れませんね。
チベット仏教なんかでも、おそらく人を見えない力で治療する僧はいると思うんですけど、それは修行の初期か中間レベルの僧ではないでしょうか?おそらく、ダライ・ラマはそんなことしない。ただダライ・ラマの傍にいるだけで病気が治るということはあるかも知れませんが。
それは、「作為無くして自然を行ずる」の極めですね。私なんか、まだまだ作為をするもんな~。
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