来世で生まれ変わったら、今の亭主とまた結婚したいと言う女性にまだ会ったことがない。「来世では別の男が良い。今の亭主はもう厭きた」と。多くの亭主は、今の女房ともう一度結婚しても良いと思っているのではないだろうか?またゼロから女という訳の分からない生き物を扱うのは面倒だ。慣れている方が良いと。ははははは!
家庭生活に関しては、男の方が現状満足というのはあるのかも知れないな。女の方が欲が深い?まあ、女は出産で命をかける訳だから、命をかけるにはより価値のある男を求めるのは自然かも知れないな。遺伝子がそのようにプログラムされている。
ある男が、前世でインドで修行をしたけれど、中途半端なレベルで終わって自分で納得できないまま死んだ。今生で日本に生まれても、前世での中途半端なレベルで終わった修行に対してこだわりを持っていて、今なお、修行をさ迷っているように見える人がいる。どこに行っても満足の師に出会えず、いくら瞑想しても心の深いところで満足が得られない。そのように中途半端は次の人生に引きずるんだな。
不満足というものは依存症と似ているな。彼は来世、インドに生まれて、「もういい、これで納得!」と悟るまで徹底的に修行するしかないな。
国のために死ぬ、多くの人を守るために死ぬということは悟りと同等の意味を持つので、国(多くの人)のために命を投げ出して始めて自分の魂が納得する面はあると思いますね。山の奥で修行していて虎に自分の命を穏やかな気持ちで差し出す心を持って始めて悟れるというのも同じですね。今、まさに自分を食おうとしている虎に愛の思念を送って悟れる?いえいえ、それでも悟りにはまだのようですね。虎に自分の命を差し出すという意識がまだ残っているから。
前にも何度か書きましたが、「世のため、人のため」という意識がある間はまだダメなんですよね。電車やバスで前に立ったお年寄りに席を譲ろうと意識して席を立つ間はまだダメなんですよね。無意識に出来ないと。親切にされた側が親切にされたという感謝の気持ちが起きる間はまだダメなんですよね。自然ではないから。もちろんその境地に達するには意識的な行動の繰り返しは必要です。それが無意識になって価値がある。無意識にされた親切は、された側が親切と感じないんです。親切にされた側が後で思い出して、「そう言えば、今日席を譲ってくれたな・・・」というのが理想ですね。それが陰徳というものだと思いますね。修行で悟るより、そういう境地に達する方が大事だと私は思います。
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