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足の踏みつけ運動の進化のお陰?

概ね1年前にハンドルを90゜ぐらい曲げた状態で自転車から飛び降りて、足の根元、股関節を痛めた。普通に歩く時は何も問題は無かったが、自転車から降りた時に痛みを感じていた。当然、走る時も痛みを感じていた。若い時なら身体をひねって自転車から飛び降りても股関節を痛めるようなことはなかったが、歳を取って関節の油が切れていたんだろうな?
昨年の10月から足の踏みつけ運動にねじりを入れるようにして滞空時間を長くするようにしている。最近、自転車を降りる時にも股関節の痛みを感じなくなっていることに気づいた。ねじりにも効く筋肉が出来て関節を筋肉で支えることが出来てきているんだろうな?まあ、何事も無駄ではないということではあるけど、関節は痛めないことに越したことはない。
正直、股関節の痛みがなかなか消えなかったので、「今は大した痛みではないけど、これを放っておけば10年後、股関節の大きな問題になるだろう。」と考えて足の踏みつけ運動に工夫を加えた。天風教義を習った通りに毎日、ワン・パターンでするだけでも大したものだと思うけれど、意味を考えて必要に応じて発展的変化をさせないと、と思うな。それは安定打坐やクンバハカにも言えることだけど、「基本形から応用編」に進化しないとだな。歳を取る10年前から工夫して準備しておかないと。今迄通りに、だけでは10年後の自分を支えられない。
注意:天風会が指導する足の踏みつけ運動のリズムで足のひねりを入れると足の関節を悪くすると思うよ。
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何かが足りない?

ある人に明らかに若年性何とかの傾向か、脳梗塞の前兆が見受けられるので、私は人に嫌われることは気にしないので、遠慮せずにズバッと聞いた。
「○○さん、最近何か身体の悪いところあります?」
「いや、別に何も悪いところはありませんよ。ずーっと健康です。」
「そうですか?身体の動きが鈍くなっていますね?」
「歳のせいかも知れません。」
確か、彼は私より一つか二つ下だったと思うけど、ボーッとしてゆっくりな動きになっていて、以前のような切れがない。惚けの始まりに見える。
毎日、呼吸操練や統一式運動法、安定打坐を実践していてもそれぞれの運命には勝てないのかな?それとも天風教義の実践に何かが足りないのかな?
前にも書いたことあると思うけど、まじめであることは必要だけど、まじめなだけではダメなんだよな~?自分で、あ~だこ~だ工夫してその微妙な違いを認識して進化しないと会得出来ない。
天風教義というのは総合力として大した内容だと思うのだけれど、ピンポイントで考えた場合にどうなんだろう?例えば、惚け防止、鬱を治す、腰痛を治す、ガンを治す、仕事運を良くする、というようにまずはピンポイントで多くの人は希望するよね。ピンポイントで人々のニーズに応えられるかどうか?「腰痛を治すのにそんなにたくさんのことを実践しないといけないなんて面倒だ。腰痛に瞑想?そんなの関係ない!」ということになりかねない?鬱病の人の瞑想は注意しないといけない。余程の指導者がいない限りむしろしない方が良いかも知れない。まあ、腰痛に関しては天風教義は予防にはなると思うけど治せないと思うな。

姿勢の修正

たくさんの理屈を一時(いっとき)に聞いても記憶に残らない。ひとつひとつはその通りだとは思ってもそういう話は身に付かないね。本を読んで考えて、それをまとめたというまじめさは認めるけど、それでは会員は増えない。一時の話では理屈はひとつにしないといけないな。それに身体から滲み出る話でないとな。
姿勢の大切さも多くの人には、なかなか理解されない。一時修正してあげてもすぐに元に戻る。安定打坐の意味が会得でないと姿勢の修正には行き着かないだろうな?「目を回転する時に顔は動かさないように」と言っても顔を動かしている人はいつまで経っても修正しない。一人一人指導修正しないといけないんだろうな?なぜなら人は自分が見えないから。人から顔を動かしているように見えても本人は動かしていないつもりがあるのだろうから。
運動法でも、「身体を起こして一度正面を見て、姿勢のリセットをして次の動作に入るように」といつも教わっているのに顔を正面に向けないで下を向いたまま次の動作に入っている人も結構いる。それだけでも会得できないのだから、何年も会員でいてもクンバハカとか安定打坐の会得にはほど遠い。それでも一般の人に比べれば姿勢などはかなり良いのかも知れないが?

情味を味わう

「日々の情味を味わう。」という言葉がありますが、情味を味わうとは頭で考えて理解することではないのだと思いますね。
皮膚感覚で味わうもの?皮膚に染みこんでくる有り難さ、なのでは?
今まで何でもなかった景色が、しみじみと美しいと感じる、また当たり前に食べていたものがしみじみと美味しいと感じる、また人の言葉の優しさを感じる、当たり前だと思っていたものが実は当たり前では無かったと知る。それが情味を味わうことなのではないだろうか?
感謝ノートを書いている人もままいるかも知れませんが、一日十個ぐらいしか思いつかない、二十個も考えられないという人もいます。
特別なものにしか感謝が出来ないからですね。当たり前と思っているものが当たり前でないことに気づいていないからですね。毎日の当たり前のことほど有り難いことはない。普通の家族、普通の一日、普通の健康、毎朝、家族で一緒に食べる普通の朝食、普通に水道から水が出る、普通に呼吸が出来る。
普通、それが一番有り難い。特に普通に呼吸が出来ることは如何に有り難いことか。呼吸が出来ない経験を持った人間にしか分からないのかも知れないけど?

ふ~!

今日は徒歩一分のクリーニング屋に引き取りに行った以外部屋から一歩も出ずにひたすら朝から図面を描いていた。ふ~!
ちなみに天風教義の中に家族という言葉が出てこないね。なぜだろう?
まずは家族関係が一番大切だと思うけど、明治の男には家族の大切さという観念が薄かったのかな?「世のため人のため、責務を果たし云々」はあるけど、家族をないがしろにして世のため人のためはないんじゃないかな~?
天風会が伸びないのは、悲しみに対する受け入れ、家族問題に対する考えが具体的に足らないんじゃないかな?悲しみはまず受け入れることが大切だと思うな。積極はそれからだよね。頭のいい人は抽象的理論からの類推はもちろん出来るだろうけど、それでは多くの人は具体的には分からない。
「誦句集を覚えても難しくて具体的に分からなかった。」という言葉を辞めた人からまま聞きますね。前で話す先生方もほとんどは抽象論や知識を話すだけだから、それに、「怒らず、恐れず、悲しまず、力だ!勇気だ!信念だ!」と言っても親の自己満足だけで子供の鬱や引きこもりは治らない。


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