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知識から気づきへ

天風会に入っても知識を求めている人は、数年で厭きて辞めていく。
「もう知識は分かったから自分でやるだけだな。これ以上参加しても新しい知識を得ることは出来ない。本を読んでいた方がまだまし。」と思うことになる。
細胞感覚で自分で気づくところまで上がれば、すべては常に新鮮だな。
夏期修練会は特にその要素が強い。何かを他者(先生方)から求める意識があると3,4年で失望することになるな。「いつも同じだから」と。
2,3年やれば夏期修練会も日曜行修会も新しい知識はほとんど何も無い現実。知識を求める段階から、自ら気づく段階に上がれるかどうかだな。
自分で気づく世界に入ると限りなく広く深いことに気づく。
確かにね~、私もよく続いているな。ふう!24年か?英語サークルは33年?
「これで卒業!」という自分で納得できるレベルに達しないもんな。仕事も引退する定年年齢だけど、まだまだスタート時点という感じしか持っていない。




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腰骨を立てる

以下、疑問への回答です。
天風教義の中に、または天風先生の言葉の中に存在しない言葉は、親孝行、涙(涙の効用)、謙虚、そして、”腰骨を立てる”ですね。
親孝行は、「感謝と歓喜という感情」とか「霊性心」という中に当然含まれているのですが、特に明治生まれの人間には、教義以前の余りに当たり前のことなので教義の中にわざわざ入れるものではないということでその言葉は無いのでしょう。それに家族愛というレベルの次元を超えた高い次元の愛に上がりなさいというのが教義ですね。家族愛は、まあ言えば三次元の愛ですね。三次元の愛を包括する一段上の四次元、五次元の愛に上がりなさいが天風教義でもありますね。そのことは本物の他の教義でも同じですね。霊性心は四次元だと思う。
涙の効用は当時の科学ではまだ判っていなかったのもあるだろうし、明治の男は、「男は泣くな!」、「泣くのは女々しい」と教育を受けたせいもあるのでしょう。

「腰骨を立てる」という言葉は教義の中に存在しないし、天風先生の講演テープの中にも存在しない。なぜか?これも親孝行と同じで当時の日本人には余りにも当たり前のことだからですね。「楽い姿勢で坐りなさい」という言葉はあります。この「楽い姿勢」の中にその意味は含まれますね。
腰骨を立てないと本当の意味の楽い姿勢にならないのです。
ビルなどの建設工事をする肉体労働は腰が曲がっていると疲労が激しくて労働に耐えられないと聞きます。疲れないためには腰骨を立てていないといけない。
今は腰骨を立てるということをわざわざ教えないといけない時代になっている。言葉として教わっていないから、それはどうでも良いことというのとは違いますね。天風先生の写真からすべては見えてきます。

天風先生は言葉や文章にならないものは、写真で教えていますね。写真から学ぶ力が必要ですが、写真を分析して説いている人は少ない?私以外いない?
人の姿勢からその人の悟り程度も見えます。腰骨を楽に立てていて、真っ直ぐスッと立っている、なおかつ全身の力が抜けているのが基本ですね。
今は、まずは腰に力を入れないと腰骨が立たない日本人になっていますが、力を入れないで腰が立つまで習慣づけしないといつまで経ってもクンバハカは分かりませんね。
腰や背が曲がっている人がクンバハカを説明するのはチャンチャラおかしい。
安定打坐の最中に寝る人は腰や背が曲がっているからですね。姿勢が悪いと安定打坐も出来ない。
坐る習慣、肛門を締める習慣がまず大事なので、細かいことをいちいち言うと嫌がって続かない人が多くなるので、まずは細かい指導はしないまま来たら、いつの間にか戦後の細かい姿勢の躾を受けなかった人が指導者になっている?それでも最近は天風会でも腰骨を立てることの重要さを説く人もぽつぽつ出てきました。
戦前は家庭教育だけでなく徴兵による軍事訓練で腰骨を立てる癖を作っていた。戦後は腰骨を立てることを家庭教育でも教えなくなってきている。徴兵による軍事訓練もないので姿勢の矯正も無いのが日本人ですね。
腰骨を立てる躾をしている幼稚園がありますが、園児はなかなか立派らしい。
まあ~、それと安定打坐にうまく入ると自然に腰骨は立ってきますね。また腰が曲がっていると臍下丹田に気が落ちない。でもそういうことを初心者に教えても、そういうことに気が行ってそれが雑念になってしまう。5年以上やっている人でないと教えられない面ではありますね。




姿勢

町を歩いていて小さな子供の姿勢を観察していると、3~5歳ぐらいの子供の姿勢が理想的ですね。大人があの姿勢を普段出来ていれば素晴らしい。
力を入れないで自然体でまっすぐですね。体重の重さが無い。腰や背中が曲がっている子供はいない。歳と共に姿勢の曲がりの癖が付いてくるんですね。
養動法のリズムも母親が電車の中で立ちながら腕の中に寝ている赤ん坊を気持ちよく寝させる回転運動が見本ですね。両手で赤ん坊を抱いているので、腰が回っている。せかせか回すのは運動であって養動法ではないですね。養動法は気を練るのですから、早く回すと気が練れない。
町の中でいろいろ観察していると勉強になります。

教義と会得

天風会員は本当にまじめだと思うな。みんな小物だけど。庶民と言って良いかも?庶民の教えの会だな。よく本を読んで、それをよくまとめている人はいる。
しかしそれでは新しい人や大物を引きつけることが出来ない。大物ががいないと人が増えない。私から見るに、天風会員は迷っていないけど、心がさ迷っている。手すりを持たないでふらふら歩いている赤ん坊みたいなものだな。
本に真理や方法が書かれているけど、会得するための個々の具体的な方法論が無い。それはいちいち本に書けないものですね。ある人には右を歩け!と言わないといけないし、別な人には左を選べと言わないといけないことがある。
だから具体的方法は人を見て直接伝えるものですね。
真理はひとつでも処方箋は一人一人違う。
「天風教義には方法論がある」と言われているけど、普通の人にはレベルが高すぎるんだよね。「雲の上の方法論を言われても分からない、私に分かる方法論までかみ砕いて説明して欲しい」という話しをまま聞くことがある。
安定打坐はあうだこうだ、クンバハカはあうのこうの、姿勢がどうのこうの、と説く人はいるけど、私から見ると、説いている人が出来ていない。腰骨を立てる大事さを説く人が安定打坐の時も普段も腰が曲がっている。それは個人を責めているのでは無いです。一人一人はその立場立場でまじめに誠実に一生懸命にやっている。でも本当の柱が無いんですよね。それは創始者が既に亡くなっている宗教や何かの教えの会が中興の祖が現れるまでに辿る必然の道なのでしょうから仕方が無いのかも知れませんが。中興の祖が現れなければ消滅するか、細々と自己満足で続いていくか、ですね。

安定(あんじょう)

最近、歩いていると、坐って安定打坐している時の心境と同じ状態になっていることが多い。それで、フッと思うのは、「俺は生きているのだろうか?俺は本当にここに存在しているのだろうか?死んでいることに気づかずに歩いているのではないのだろうか?」なんていう心持ちになるな。



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