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辞めていく理由

天風会に入っても長く続く人は少ない。クンバハカや安定打坐を会得できないまま、しかし本人は分かったつもりになって辞めていく。残念なことです。
しかし何故だろう?本質の会得まで教えてくれる人がいないからかな?
表面的な教えのままから前に進めないから?
クンバハカ、安定打坐、観念要素の更改が三本柱だと思うけど、その上に死生観の確立が大事だと思うな。死生観を教えると宗教になってしまうから教えられない?
「俺は信念強くなる!」と寝る前に鏡を見て言って、朝起きて、「俺は信念強くなった!」と言うのが観念要素の更改だと思っている人が多い。
それは天風小学校一年のカリキュラムだよね。それは入り口として重要ではあるけど単なる入り口であってすべてではない。
天風会に人間関係を学びに来る人はいないけど、人間関係に疲れる人はいる。それは本末転倒だと思うな。本質以外は放せば良いのにと思ってしまう。
日本人は学校でも会社でもどこに行っても人間関係の泥沼で溺れる遺伝子を持っているのかな?学校は知識を学ぶ所、会社は生活のために仕事をする所、宗教団体やいろんな教えの会は教義を学び身に付ける所、なのだからそれら目的以外のことは場合によればどうでも良いこと。目的意識が明確に無いから人間関係の泥沼に入ってしまうんだな。
それにしても、「退会します」で、「分かりました」だけで済むのが天風会の良いところだな。他の宗教団体なら、「辞めれば地獄に落ちる」とか「辞めれば不幸が訪れる」とかいろいろ脅かされるけどね。

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足が地に着いている。

地球と足(または自分)が繋がっているという意識で足の下の大地(地球)に意識を持って行って立ったり歩いたりすると重心が下半身に落ちる。
当然、クンバハカも入りやすくなるな。
足が地に着いていないとか、足が地に着いているいう言い方があるよね。
あれ、本当のことだと思うな。鬱病とか心の病を持っている人は足が宙に浮いてふらふらしているな。地面をしっかり歩いていないな。
地面を意識してしっかり歩くというのが大事だな。



無念無想2

「立つな、坐るな、横になるな」というのは心のことを言っているのです。
一言で言えば無念無想のことですね。ひとつの状態に心を置かない。
いえ、状態というものに心を置かない。すなわち心自体が消えた状態。
柳生但馬の守が3年の修行の結果得たものは、どういう言葉であっても、たくあん和尚は「それが答えだ!」と答えたのではないだろうか?
いえ、たくあん和尚は、「分かりません!」という柳生但馬の守の言葉に対して、言ったのではなく、彼の目、姿勢、心の状態を見て、「それが答えだ!」と答えたのではないだろうか?無念無想という言葉を使えば、その答え自体、無念無想ではないから、言葉が無い。「分かりません」と表現するしか無かった。
柳生但馬の守は3年の修行で無念無想を掴んだから、たくあん和尚の所に戻ってきて、「立つな、坐るな、横になるなの意味は、分かりません」と答えたのですね、きっと。
たくあん和尚から課題を与えられた時の「分からない」と、3年修行の後の「分からない」では、同じ言葉でも意味が違う。
高校までの数学しか学んでいない人間の、「数学は分からない」というのと、数学者の数学は分からないというのでは意味が違う。まあ、それと同じですね。
「分からない」という言葉は難しい。歴史なんかもそうだよね。学校での知識とNHKドラマだけで日本の歴史は知っていると思っている人は多い。
勉強すればするほど、分からないという言葉の意味は重くなる。


無念無想

昨日の日曜行修会で、
「天風先生の講演テープの中に、「柳生但馬の守が、たくあん和尚から、
”立つな、坐るな、横になるな!”という課題を与えられた。
その意味の答えは明日に。」ということで、そのテープはそこまでで、天風先生が次の日に、どうその意味を説明したのか分からない。
安定打坐のできる村長さん、この意味が分かりますか?」と安定打坐の時間の前に、I先生から質問を投げかけられた。
I先生に質問を投げかけられる前にその答えを考えていたが、私は答えました。
「今のところ、その答えは分かりません!」と。
で、その答えの部分の天風先生の講演テープをたまたま最近、聴いた人がいて、その意味を前に立って説明してくれました。
「柳生但馬の守は、その意味が分からなくて、答えを出そうと3年修行して、再びたくあん和尚の元に行き答えました。
「立つな、坐るな、横になるなという意味は分かりません。」と。」
たくあん和尚曰く、「それが答えだ!」と。
私としては、知ったかブッタ!をしなくて良かった~!と安堵しました。
分からないことは分からないと答えて良かったな~と思いました。
で、その答えを説明してくれた人とトイレで話す機会があり、何で、たくあん和尚は答えの無い課題を与えたのか?というのは、我の強い柳生但馬の守の我を無くすためだったと。
それを考える3年の修行の間に、柳生但馬の守は人間がまるくなったそうです。
ちなみに柳生但馬の守にこの課題が与えられた頃(3年間の修行に入る前)は、宮本武蔵は隙だらけの構えで対決者は打ち込めなかったと。柳生但馬の守はまったく隙の無い構えで打ち込めなかったと。
その時、宮本武蔵は無念無想を会得していたけれど、柳生但馬の守は会得していなかったという説明だったという話しでした。

安定打坐

人間、寝ている時は子供のように無邪気、無心の顔でなくてはならない。
安定打坐している時は、仏様か観音様のような品がなくてはならない。
ところがこれらは自分で見ることが出来ません。
人は、あ~だ、こ~だと理屈と自己弁護をします。
自己弁護をする癖のある人の安定打坐中の顔は美しくありません。
理屈を言う人の顔も美しくありません。
何とか分からせられないかな~?と考えていますが、なかなか難しい。
何せ、あ~だ、こ~だと理屈を言いますからね。
「打坐中のあなたの顔、険しい顔になっているよ」と言えないし。
その人が何を言っても、安定打坐中の姿勢と顔にすべてが出ています。
理屈や理由(言い訳)を頭で考えている間は壁を越えられないんだよね。
理屈や好悪の感情を放した時に顔が変わる。
あ~!私は何ということを書いているのだろか?
私ほど理屈っぽい闘争的な人間はいなかったのに!
まあ、歳取って理屈っぽい人間はダメだな。感情っぽいのはもっとダメだけど。理屈は必要だけど20%ぐらいにしないとな。感情は10%以下にしないとな。
安定打坐中の顔の作り方もいずれ指導したいなと思うけどね、それは心のあり方と同義語でもあるからな。一人一人の打坐中の写真を撮ろうとしたことはあるのだけれど、出来なかったな。写真を撮るという動きをすると空気(または気)が乱れるから。気が張り詰めた中では一切の動きが出来ない。
ただ、そういう感性や緊張感は日曜行修会は持っていないよね。




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